[[ 死んでいく ]]
その日、その夢には珍しく歌がなかった。
大抵、3日に一度は見ていた彼女との夢も今日でもう何度目になるのか分からないのにもかかわらず、
夢に歌が流れていないのは今日がはじめてであって、僕は驚いて耳をすました。
しかしいくら耳をすまそうと、気配をけしてふるえを感じようとしてもなにもない。
僕はそもそもこの世界にはふるえ自体が存在していなかったことを思い出すまで何度も何度も僕の存在をその世界から殺した。
それからしばらくして、ようやく僕の存在に気がついた彼女は自分が歌を歌っていないことに気が付いていないのか
不思議がる僕をよそにいつものように口を開くことなく僕に語りかけた。
(ねえ、きみはひとっていつ死ぬと思うの?)
歌を歌うときとは違う、不安に満ちたその声は迷いながら僕の耳を体の内側からふるわせた。
その問いの意味を僕は理解するまでに多少の時間を要したが、理解したあともまた答えを見つけるのに首をかしげた。
つまり今日の彼女は、またたくさんの思い出達の死に涙を大量に流したのだろう。
だから不気味なほど肌がしろく、声はゆるゆるとふるえながら木霊したのだろう。
僕は彼女の思い出を傷付けないための答えを頭の中で探しながら、迷いつつそっと口を開いた。
「ひとが死ぬのは・・・やっぱり寿命が尽きたらじゃないの、かなあ」
そう口にしてから僕は少なからず後悔した。あまりに答えが普通すぎる、なんてありきたりな答えなんだろう!
そう思って僕は内心かなり自分を叱咤しつつ彼女をちらりと横目であおいだ。
しかし彼女は僕の答えがまるで聞こえていなかったようにさきほどと同じ顔と仕草で俯きがちに座りこんでいた。
「あ、ごめん。ありきたりな答えで・・・僕にも実はよくわからないよ。だって、死んだことなんてないんだもの。」
死んだことなんてないから、いつ死ぬのか何て分からない。だから僕等はこうして今もいつ死ぬのか分からない恐怖と
戦いつつ、毎日を過ごしているのではないか。それが僕の正直な考えだった。
しかし彼女はそれでも俯きがちで、何かを考えるかのように首をひねる。
真っ白な眉間に皺がよるのと同時に、その綺麗な瞳からぽろりとひとつぶの涙を零した。
僕は彼女が泣くのをはじめてみた。いつも歌を歌いながらこぼすのは涙ではなく、命の雫だ。
その雫は僕等の世界を救うために、思い出が消えて無くなる前の弔いの象徴だ。
せつないくて愛しいそれはいつも大事そうに彼女の白い頬を伝ったあとに、たったひとつの祈りを残して地上へと降り注ぐのだ。
僕は素直に、こうして彼女の頬を流れる涙はとても美しいと思った。
とても純粋で綺麗なそれはひどく透明で、心から愛しいと思えるほどもろく儚げだった。
(ひとが死ぬのは体が朽ちるからではないわ、ひとはね、そこにたとえ体があっても、簡単に死ねるのよ)
ぽろぽろと泣きながら彼女は言う。その言葉は一体僕に向けられたものなのか、それとも僕以外の誰かに向けられたものなのか
正直分からなかったけれど、僕はどうして彼女が泣いているのか分かる事ができずただそこに立ち尽くす。
彼女の小さな口から零れる言葉ひとつひとつを聞き逃すことがないように、そっと心を彼女に傾けた。
(ひとが死ぬのはだれかにその存在を忘れられた時。誰の心からもいなくなったその瞬間、ひとは死んでいくのよ)
「わすれられてしまったら、人は死ぬのかい?たとえ息をしていても?」
僕の問いに、彼女はこくりと頷いた。その拍子にまた一粒の涙がぽろりと零れたけれど彼女はそれを拭うことなどせずに
まるで絶望の淵に立たされたかのように白い顔を余計青白くさせてそっとその顔を両手で覆ってしまった。
細い指の向こうでも彼女は顔を歪ませて泣いている。
(いきものでも、ものでも、忘れられたその瞬間にそれは命としての価値をなくすわ。
古びたおもちゃのように部屋のすみ、物陰のしたに置いてかれて、やがて真っ白なほこりを被って、壊れて捨てられてしまうのよ)
それを聞いた僕は、たしかにそうだと1人思った。
だからこそ僕等は、ひとりでは生きて行けない。人の温もりと、自分の存在価値を得る為に友がいて、親がいて、命がある。
彼女は泣き止まない。
空の上で空を仰ぎながら、両手で覆った顔面の端から、いくつもの涙の粒が落ちてはぱしゃんと弾けて溶けて行った。
(ねえ、ならわたくしは生きている?)
ふいに彼女が顔をあげる。透明な瞳や空虚で、何も写さない。その瞳は僕を写さない。
ここにいない誰かを写し、それを想って涙を零している。
彼女の言葉がふるえる。その言葉でようやく僕は理解をした。なんて、なんてまぬけだったんだろうか。
彼女は最初から僕に問い掛けていたわけじゃない。彼女は僕なんてちらりとも見ていなかった。
(いいえ、わたしはもう死んでいるわ。誰の思い出にもならず、誰のこころにもあらず。
あの人はつねにわたしの心にあるのに、もうあの人のこころにはわたしはいない、だからもうわたしは誰のこころにもないの)
彼女が泣いている理由、それがそれだった。
彼女は自分が世界中から忘れられていることが悲しくて、はじめて泣いた。
僕の心にはいつだって彼女がいるのに、彼女のこころにはかつて愛した人でいっぱいなのだ。
彼女は生きているのに、僕のこころに、思い出としてここに存在しているのに。
(そうか、なら僕も死んでいるのかもしれない。)
誰かが僕のことを忘れずにいてくれたとしても、僕がこんなにも想う君の中に僕がいないのであれば
…僕は例え息をしていたとしても、ただそれだけの事実でこの目の前の景色がすべて灰色に変わってしまうような気がした。
泣いている彼女を見下ろしながら僕は1度からだをこの世に残して流れてこない涙と一緒に死んでしまった。
(08年発行FFCC小説アンソロ「つかめないほし」番外編 /つんつん→ミオ)