こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。
とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。
そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。
――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯いた。
女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。
すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。
静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。
長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
彼女を横たえた土は、ひんやりと冷たく、温かい。どこか絹のような滑らかさを持っていた。
自分はそっとそこに腰を降ろしそっと彼女が眠る墓石に降れてみる。
それはほんのりと温かく、はて、石とはこんなに温かいものなのだろうかと一人首を傾げた。
しばし考えると、つい先ほど東の空を包みこんだ朝焼けが西の空をかざす夕暮れとなっているのに気が付いた。
もうそんなに時間がたったのか、曖昧な脳を震えたたせ徐々にぽつぽつと天平のように現れる星をそっと見上げた。
夜がきても、墓石は命をもつ人肌のように柔らかく温かい。そこで自分ははっと思った。
さっき自分が置いた星の欠片が、彼女の冷たくなった肌を柔らかく包みこんでくれているからだと。
こうしておけば彼女は100年後に徐々に頂いた温度をその身に蓄えて自分の目の前に現れるのだろうと確信した。
あの星がまた一つ欠片になって落ちる時、自分はまたそれを拾い、こうして彼女の体を温めようとそっと目を閉じた。
「あら、そこのお若い方。何をしていらっしゃるの?」
自分がそうして何度か日と月の光を交互に浴び続けたある日。
ふと顔をあげるとそこにご老人が露りと光る、真珠貝の雫を吸ったこの土を両手で救い上げながらそっと微笑んだ。
「待っているのだよ。」
自分は答えた。するとご老人は薄っすらを微笑、あらと首を傾げた。
「どうりで。私も若い頃、そうして待ったものだわ。――色を沢山、見ましたわ。」
救い上げた土を、ぶわりと吹いた風が柔らかく救い上げる。不思議な香りが鼻を擽り同時に自分は確かに、と笑ってみせた。
「寒いのではなくて?これを差し上げるわ。」
そういってご老人は懐から1枚の布を差し出した。正方形の、両手に納まる小さな布だ。
自分はそれをありがたく受け取り、これで雨風をしのげますと微笑んだ。ご老人も、つたれて笑う。
「彼女は最後になんと?」
「ああ、百年待ってほしいそうだ。」
あらそうなの。ご老人は最後にそっと微笑んで、では彼女にこれを、小さな種を一粒差し出した。
「紅葉の種よ。少し待てば、沢山の色を貴方に差し出すはずよ」
自分はそれを受け取り、また沈み始めた太陽を尻目に変わりゆく空色をじっと眺めた。
月と太陽の光を自分と同じように浴び続けたその種は、しばらく待つうちにそっと目を生やしていった。
星の欠片はまだ温かい。真珠貝の光が沁みついた土を存分に吸い上げたそれは、きらきらと輝きながらそっと葉を揺らした。
これはあのご老人からの彼女への贈り物だ。よかったな、と自分はそっと墓石を撫でた。それは酷く柔らかかった。
彼女を横たえた土は、ひんやりと冷たく、温かい。どこか絹のような滑らかさを持っていた。
自分はそっとそこに腰を降ろしそっと彼女が眠る墓石に降れてみる。
それは酷く冷たかった。はて、石とはこんなにも冷たいものだったろうかと一人首を傾げた。
降り注ぐ紅葉を積もらせた大地も移り変わる生命の息吹をあらわしていて、自分がすわる土もまたほんのり冷たく
その中に新しい命が、そこを拠点に天に向かい高く高く、その背を突き出している。
しばし考えると、つい先ほど西の空をかざしていた夕焼けが東の空を包みこむ朝焼けとなっているのに気が付いた。
もうそんなに時間がたったのか、曖昧な脳を震えたたせ徐々にゆらりゆらりと現れる白い雲をそっと見上げた。
朝がきても、墓石は命を失った人肌のように冷たく硬い。そこで自分ははっと思った。
彼女が死に際に流した温かい涙が、そっと冷えかけた世界を変わりに暖めているからなのだと。
世界が冷たくなる変わりに、彼女の墓石がそっと冷たくなっているからなのだと。自分は、どうしたものかと俯いた。
しかし、しばらくたてば彼女が温めた世界が、そのうち花を咲かすだろう、さすればここも温かくなるだろうと確信した。
世界がまた温かくなったら、世界がもう2度と冷たくならない様に今度は自分が温めてやろうと目を閉じた。
「彼女はまだ現れないのですか?」
自分がそうして何度か日と月の光を交互に浴び続けたある日。
ふと顔をあげるとそこには若い青年が降り積もる色とりどりの紅葉を両手ですくいながらそっと微笑んだ。
「ああ、まだ100年待っていないからな。」
自分はそう答えた。
すると青年は怪訝そうにいぶかしみながらすくった紅葉をはらりと垂らした。
「貴方が彼女を待っている間、随分世界が変わってしまいましたよ。
――随分と色が減ってしまった」
垂らした紅葉を風がぶわりと吹いた風が荒荒しくそれを舞いあがらせた。懐かしい温度を感じ同時に自分は確かに、と笑って見せた。
「はて、彼女が見当たりませんね。どちらに?」
そういって青年はきょろきょろと辺りを見まわした。自分はそれを見て苦笑し、首を傾げた青年を見上げてこういった。
最近あちらが寒くてな、ちょっくら暖を貸しにいっているのだよ。ここは寒いが、大丈夫だ。
「この布が、あるからな。彼女が帰ってくれば、なお温かいのだよ。」
その布は随分昔にご老人にいただいたあの小さな正方形の布だった。
この布は小さな星の欠片とあのご老人の白髪を編みこんで作られたものだった。
だからこれは、かつての彼女がいた墓石のように温かく、優しい。彼女が帰ってくれば、尚温かいだろうと笑った。
「ならば、途中で彼女を見かけたら伝えておきますよ。」
貴方が100年待っている。月の光も太陽の光も、彼は体中でそれを受けとめていたよ、と。
自分はかたじけない、と微笑むと、青年は照れた様にいえ、こちらこそありがとうと微笑んでそっときた道を戻って行った。
太陽の光と月の光を交互に浴び続けた自分は、天まで高く伸びた茂みの中に姿を隠されながらそっとうたた寝をした。
頬をかする草が痒い。そうしてしばらくしていると、身を預けていた墓石がほんのり温かくなってきている事に気がついた。
ああ、帰ってきたのかね。自分はそうしてもう1度墓石を撫であげるとまどろんだ視界をこすり、上がりかけた太陽を見て微笑んだ。
柔らかくなった彼女の身胸にそっと体を預けながら、もう1度、変わらない太陽の日を自分は浴び続けている。
男はただ、待っていた。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。
真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
fin.
冒頭、最後の文はともに夏目漱石著者「夢十夜 第一夜」より引用(100年と1日//070705)