第一部

 唐突な話だけど、俺は日常が好きだ。
 普通に学校行って、普通にクラスメイトとバカ話して、普通に家族と食事を取って。そんな何気ない中にちょっとした変化があってそれを楽しむ。散歩をしている時に友人がデートしてる所を見かけたり、先生がゲーセンにはまってて対戦相手になったり。誰もが送るような、当たり前のような生活が俺は好きだ。
 たまにクラスメイトの話を聞くと、もしこんな世界だったら、と可能性をふくらまして会話を楽しんでいる時がある。魔法がある世界で少年が冒険する映画、未来でとんでもない兵器を用いるアニメ、現代を舞台にしててもちょっと不思議な能力を持った登場人物がいるノベルス。時によってさまざまだけど、まあ色々。
 俺も空想をふくらまして考える事は凄く面白いと思ってる。俺だって特撮ヒーローにあこがれる事が多いから、そんな世界だったらと考えが浮かぶ事もしょっちゅうだ。まあこの場合、できれば敵に倒される市民Aは勘弁してほしいけど。
 だけど、それが実際になってほしいとは思わない。俺は普通の世界が気に入ってるし、今の世界で日常を送れることを幸せに思っている。
 なんて言うのかな。そんな超常現象を実際の世界で所有したとして、その後どうするかの話だ。とんでもないものがある世界ではとんでもないコトが日常になっていて、今俺が送ってる日常こそが非日常になるんだろう。
 悪いけど俺にはそんなの耐えられない。今の世の中でも人生波乱万丈で面白いと断言できるのに、これ以上変な事があったらややこしくなるだけで面白くはなりそうにない。逆に複雑さが増して頭が痛くなっているに違いない。
 剣と魔法の世界も空想、怪獣も特殊能力もあくまで想像。あくまで創作の世界だからこそ面白いのであって、現実に反映されたんだと完全に問題だし俺も困る。空想は空想だからこそ面白いんだ。
 正直それらが不必要とも言える。そんなのを俺が持ったとして、何をするのだろうか、だ。使い道のない能力なんて無用の長物以外の何物でもないし、余計なモノは正直邪魔だ。そんなものがあったらあったで、俺にとっては嫌な展開が待っているだろう。
 それに、それが魔法みたいに学問とかなら分かるけど、才能で決まる特殊能力になるともうお手上げだ。何しろその能力においては能力者は絶対の存在。凡人とか他の能力者がどうやろうとかなうはずがない。
 ただでさえ得手不得手が激しい世の中にそんな才能だけで万能になる機会があったらどうなる? 最低でも俺はごめんだ。
 だから俺、上杉《うえすぎ》カズキはこの平穏な日常を送れる事に感謝をしている。何のメルヘンもファンタジーもないだろう、この日常に。

 時刻で言えば朝の七時半をまわった所。天気は一切の隙がないほどに快晴で、雲一つない。俺の記憶が正しければ昨日の天気予報で午後は雨が降るとか言っていたけれど、どうにも怪しそうだ。やっぱあてにならないな、と今さらながら確信する。
 あくびを噛み締めつつ大手私鉄のホームに自然と作られた乗客の列に並ぶ。各駅停車しか止まらないせいで電車の本数が少ないのは正直どうにかしてほしい、と内心でぐちる。
 暇だけどあいにく読む本がない。英単語帳を広げるのは馬鹿らしいし、活字の本で読みたいのが今のところない。漫画は論外で、音楽プレイヤーは三日前に先生に没収されたばかりだから手持ちにない。
 よって自然と別の方向に注意がそれ、前にいる別の学校の制服を着た女子高生の会話に聞き耳をたててしまう。聞く分には無料だ。文句ないだろ。
「ねえ、聞いた? 昨日また人が死んだんだってさ」
「そんなのニュース見ればいつも殺人ばっかじゃん。別に面白くも何ともないよー」
「違うって。ほら、例のあの事件よ」
 特筆する箇所のない女子高生が話す、特質する箇所のない会話。そんなモノでも暇を持て余している俺にとっては格好の暇つぶしになる。あの事件とは今世間を騒がしているアレの事だろう。
 あの事件、ローカルニュースでしかないが、この頃マスコミをにぎわす格好の題材を提供し続ける、どこかの莫迦が起こす強盗の事だ。実際の所強盗以外にも余罪が色々とあるようだけれども、俺は興味ないからその辺の事は知らない。所詮、俺にとってはその他多くの事件の一つに過ぎないのだ。
 事の始まりは一週間前だったか、鍵をしっかりかけていた家庭が最初の犠牲だった。えっと、この辺の言葉確か現代文で習ったんだよな……。そうそう、施錠だ施錠。それがしっかりされていたにも関わらず、不法侵入犯に一家四人が口封じに殺されて、ご丁寧にも施錠をまたしっかりとしていったらしい。
 これだけだと普通の事件なんだろうけど、それが立て続けに起こっている事が問題らしい。同一の手口で次々と施錠されてる民家が襲われていき、今日で見事に記念すべき十回目達成おめでとう、などと警察にとってはまことに不名誉な結果になってしまった。
 犯人どうのこうのの前に手口が判明できずに警察も頭を悩ませている。これは警察のお役御免でそろそろ丸投げしてもいいんじゃないか、が世間の意見なあたり、この世の中間違ってる気がしないでもない。
「昨日やられた家ってあんたの近所じゃない。もしかしたら次、あんたんとこかもよ」
「ウソ、やだ。こわ〜い」
 女子高生二人が笑い声をあげる。にぎやかなホームなのに随分と目立つ声だこと。おかげで中年サラリーマンがちらっと視線を投げましたぜ。
「……ま、いっか」
 本当に今さらというやつだ。こんな事件がありふれてる事は分かってても釈然としない何かがある。俺に漫画の主人公が良く持ってる勇気ってやつをひとかけらでも持ってたら犯人に向かって絶対にこう言ってやるよ。
 もっとその技術を別な事に使えよ、ってね。
 電車がアナウンスと共にやって来る。いつもどおりの混みぐあいで、いつもどおりのご一行様。毎日同じ電車を同じ扉で使ってるせいか知ってる顔が何人もいるのはご愛嬌。
 さて、今日もまったりとした一日を送りますか。そんな風に思いながらのびをして電車に乗り込む俺だったが、
「あ、やっほーカズちゃん。今日もこの電車なんですね」
 見事に身体を硬直させて絶句した。
 まさか通学路、しかも電車の中でこいつと遭遇するとは思わなかった。今すぐ回れ右して電車を一本逃したい衝動に駆られるけど、最初の授業は現代文。さぼればもれなく論説文の問題を全部押し付けられる未来が待ってる。
「京極《きょうごく》、何かこの頃狙いすましたように俺と遭遇する確率上がってないか?」
「えー、気のせいですよー。でもこの電車ならぎりぎりで学校に間に合いますし、便利ですよね。それにわたしの事は命《みこと》と呼んでほしいでーす」
 ちゃっかり俺がこの電車に固執する理由を見抜いてやがる。どうやら今後意図して一本電車を早める以外回避方法はなさそうだ。お手上げをしつつ京極のそばまで体を寄せる。
「スルーはやめて欲しいです。わたしカズちゃんの事だーいすきなのに」
「友人としては、が抜けてるぞ。誤解生むからやめろ」
「けち」
 ぷい、と頬を膨らませながら首を窓の方へとやって俺から視線を離す。俺もこれ以上しゃべる話題もないので手すりに掴まりつつ呆ける事にする。電車の中では思考を張り巡らすか寝るか外を眺めるに限る。読書や勉強は外道の方針で。
 俺の中では満員電車でしゃべる選択肢はないので、命にもぜひそうしてほしかったのだが、そう願った俺がおろかだったようだ。
「今度の犠牲者は隣町なんですってね」
「三十秒、京極にしてはもった方か」
「それでですね、この事件のコトどう思います? ほら、例の連続強盗殺人事件ですよ」
 俺の言葉を見事にスルーしての発言。命の目は宝石のように輝いてる。ガラス球とかじゃないのが更にタチ悪い。
「これも超常現象ーあれも超常現象ー、おまえそればっかじゃないか?」
「あ、ばれちゃった?」
「ばれちゃった、じゃない。俺にそんな話をするなって言っただろうが」
 ぺろっと舌を出す京極に、手すりに掴まってた手ででこぴん。混雑する電車の中でもあらかじめ腕をあげておいたから出来た芸当。ここの所でやっておかないとこいつは増長しかねん。
「あうー。カズちゃん、なんでそんなに超常現象は嫌うんですかー?」
「いや、別に超常現象自体が嫌いなんじゃなくて、そっちに気を取られて他の可能性を考えないのが嫌いなだけ。なんだか安易に超能力だ宇宙人だ言ってたら分かるものも分からないだろ」
 命は腕を下にやっているせいでなみだ目ながらも患部をさすることができない。当然俺がやってやる義務や義理はこれっぽっちもない。
「するならもっと現実味のある話題にしよう。俺実ははまってるゲームがあってさ――」
「UFOとか妖怪とかは大丈夫なのに、何かヘンです。贔屓《ひいき》してません?」
 とぼける作戦は失敗に終わったようだ。次の作戦はありません、万事休すというやつ。
 世間話とかならともかく、俺の話題にされるのは非常に困るんだがな。最もそんな事を言った所で命は自分自身の話題を話したがらないし、引き下がるはずもない事はとうに承知なので、おとなしくあきらめる。
「宇宙人は可能性があるからな。妖怪も神話の延長だったり、当時の科学で説明つかなかった事の教訓の意味合いがあるし。で、一方の超能力とかは? おまえには言ってないけど、俺は――」
「『俺は昔から単純に説明できない現象と関わりたくない』ですよね。耳にタコでーす」
 自信満々に胸を張る命、おまえがタコだ。彼女自身に話した事はないけど、どうせ他のクラスメイトから聞いたんだろうよ。それにしても、そこまで噂になるほどの主張なのだろうか、ちょっと疑問だ。
「でも理由が分かりません。なんで能力者を気に入らないんですか? カズちゃんのそれって偏見な気がするんですけど」
「もし魔法が実現したとしても、結局は凄い事するには勉強しなきゃいけないだろ。だけど、能力者の場合はソレが違ってくるだろ。与えられたものが全てを決めるみたいなやつ、俺は嫌いだ」
「あまり答えになってませんけど」
「だから、ようは努力すれば報われる状況が好きなんだって。程度こそあれ、行動起こせば報われるだろ? 俺みたいなヤツがどうやって能力持てって言うんだよ。決められた才能で全てが決まる超能力は、嫌いだ」
 それも立派な偏見だろうとは思うけれど、多分この方針は俺が俺である限り不変な事だ。そんな俺の言葉をどう捉えたのか、命はとても嬉しそうな笑顔で手を叩こうとする。もちろん腕が動かないからそのしぐさはできないけれど。
「なら今回の犯人について話してもかまいませんね」
「いや聞いてくれよ人の話」
「じゃ、どんな手口で犯行に及んだと思います? わたしは実は超能力者で、瞬間移動したんじゃないかって思うんですけど」
 強引に話を進める気かよコイツ。だからっておとなしく聞いてると授業始まるまでの間延々とこの某ガキ大将リサイタル的行為は続く事になる。ここは反論で早々にぐうの音も出ないようにするに限る。
「ひねりがない。0点」
「むむ、手厳しいですね。なら催眠術で鍵を開けてもらったとか」
「何そのありきたりなの、マイナス十点。くしゃみしたら相手が爆笑して死ぬ、ぐらい考えつかないのか」
「カズちゃんのは限定されすぎててつまんないでーす」
 そんな事は知りません。真面目に考えてないんだから、そうなるのは当たり前だ。
 その後も京極の口から能力が出るわ出るわ。よくもまあそこまで発想力があるっていうか。関心と呆れを同時に経験したのって始めてだよ。
 しかし、どうもほとんどが漫画とかで聞いた事ある能力ばかりな気がするんだが。瞬間移動と一口で言っても、あくまで超高速で移動するのかそれとも空間を渡るのかで随分と性質が違ってくるのに、そういった詳しいひねりがない気がする。
「なあ、その持論の展開はいつまで続くんだ?」
「能力なんて無限通りは考えられますから、わたしの想像力がつきるまででーす」
 だめだ、指摘せずにはいられない。こんなのを一方的に聞かされたんじゃたまらない。多分命の事だから世界が核の炎に包まれてもネタ切れはない。ここは強制終了させて俺のリサイタルを始めるしかない。
「命、おまえ駄目。ストレートすぎ」
「ええっ?」
「いいか、そういった能力は突き詰めることで更に幅が広がるんだよ。例えば――」
 結局俺と命の話は超能力関係の議論になってしまった。神サン、いるとしたら俺が何をしたのかぜひ教えてくれ。

 と、言うわけで学校に着いたときにはくたくたになってた。着席と言うより崩れ落ちたが正しいだろう。
「じゃあカズちゃん、また明日ねー」
 命は極上の笑みを浮かべて手を振り、自分の席へと去っていった。恐ろしい事を言うのはやめてほしい。でも多分その明日は当分来ないだろう。
 俺たちはどうやらぎりぎりの所で教室に到着できたらしい。クラスメイトの大半が授業の準備や朝の雑談に時間を割いてる。中には俺が命と話してた事件の話題まであるのがタチ悪し。俺はもう疲れたので授業の準備を進めるだけだった。
「はいはーい、朝休みはこれでおしまーい。ホームルーム始めるわよ」
 三十路に近いとは思えないほどの陽気な声を響かせてやって来たのは我らが担任の教師で藤原《ふじわら》先生ことふじのんだった。教職にあるのにつりスカートなのは色々と間違ってる気がします、先生。
 ふじのんの声で、立っていた連中はのろのろと席に戻っていく。ふじのんはみんなが着席したのを見て満足そうにうんうんとうなづいて、出席を取る。さぼって代返を頼むのは不可。一発でばれて粛正が待ってます。
「今日の遅刻は六人かー……。他の子ならいざ知らず、この頃なんだか山名《やまな》さんがよく遅刻するわね」
 欠席じゃなくて始めから遅刻すると断定してるあたりがふじのんらしい。いと素晴らしき偏見である。俺が休んだら遅刻って思われるのか欠席って思われるのか、ちょっと疑問がわく。
 まあ、いいか。なんてとんでもない言葉をふじのんは口にして出席簿にペケをつける。欠席である斜線にしないあたり、改める気は一切ないらしい。。
「さてみんな、テストも行事もまだ先だからって気をぬいちゃ駄目だからね。時間なんてあっという間に過ぎるんだから。今のうちに色々としておかないと後で後悔するんだからね」
「それってふじのんが行き遅れてる事と関係ありますかー?」
 何そのチャレンジャーな発言。久々に聞いたよそれ。ふじのんにあだ名と年齢と男性関係に関しては完璧にご法度だっていうのに。つい二日前に一年がタブーをやらかして犠牲になったばっかなのが学校中で噂になったの聞いてなかったのか。
 瞬殺。擬音としてはスコーンが正しいかな。とにかくそんな感じに今の発言をした男子にチョークがジャストミート。もだえる男子をあっさりとスルーしつつふじのんは続ける。どうやら今のやりとりをなかった事にする魂胆らしい。
「みんなこの頃遅刻が多いから注意する事。時間を守れない事は時間を無駄にしてる事なんだから、意識して直さないと駄目よ」
「せんせーい、それ今遅刻してるやつに言った方がいいんじゃないですかー?」
「常習犯がいるから言ってるのよ。みんなも注意を呼びかけてね」
 その常習犯に向けて指を振りながら熱弁するふじのん。返事の代わりに爆笑が返る。俺も爆笑したい所だが、ふじのんに言わせれば俺も十分に遅刻常習犯らしい。なんだか指が俺のほうにも向けられています。
 俺のせいじゃありません。悪いのは全部家にいるアイツのせいです、って言った所で信じてもらえるとは百パーセント思えないので寝坊って事にしてる。やはり納得できない。
「ホームルームはこれでおしまいね。じゃ、授業に入るわよ。教科書を昨日やったトコで開いて。まずは十六夜《いざよい》さんに読んでもらいましょうか」
 言葉つきが変わるふじのん。授業モード突入。呼ばれた十六夜も鈴がなったような綺麗な声で返事をして、立ち上がる。俺も気分を奮い立たせて教科書にかじりつく事にした。

 放課後、見事なまでに雨が降ってきた。「げー、天気予報本当だったのかよ!」「いやー、あたし傘もって来てないー」なんて声が昇降口から聞こえてくる。
 そんな事もあろうかと、俺はロッカーの中に折りたたみ傘を二つは入れている。濡れて帰るような間抜けにはなりたくないし、何より制服と鞄を乾かすのが面倒くさい。そういったわけでカサを一本手にとって悠々《ゆうゆう》と外に出て行ったんだが、
「何これ?」
 正直風は想定外だった。
 外は雨がもはや上から下に降ってくる重力の鉄則を無視したかのように横殴りになっていた。思い出すのはテレビで見かける嵐の映像。傘を持ったレポーターが必死になって実況している様子は思わず感心してしまう。今の状況はそれほどではないけれど、折りたたみ傘程度は簡単に壊れそうな勢いだった。ここはおとなしく雨ガッパにしておくべきだったか、といささか後悔。
「……らちがあかん。帰るか」
 痛くなってくる頭を抱えつつ傘をさして踏み出す。
 無機質な長方形が立ち並ぶ中に車道は広く歩道は狭い道路。最近工事ばかりで更に歩道が狭くなってるのはどうにかしてほしい。
 案の定と言うか、傘は全く役に立たない。横から襲いかかる雨と、数センチは深さがある水溜りで、靴の中や脚までずぶぬれ。これなら風に影響されない傘なしの方がはるかに気分が良い。
「――?」
 明日までにどうしようかと迷っていると、駅前で普段は見かけない雰囲気を持った人達を発見する。制服の警官達もいるけれど、真っ先に彼らの方に目が行った。パトカーもいくつか待機しているし、多分例の事件を調べているんだろう。
 警官を顎で使っているのは俳優のような整った顔の青年と、俺よりも年下なんじゃないかとまで思わせる幼い少年(?)。社会的な調った服を着ている点から、おそらくエリートの分類に入る存在なんだろう。
 でも何だかイヤな予感がする。こういったイヤな予感ってのは結構当たるもんなので、おとなしくソレに従う事にして駅前の本屋で立ち読み立ち読み。早く行ってしまえ、なんて考えるけどおとなしく立ち去ってくれそうにない様子だ。
 雑誌の隙間から状況を見る限り、どうもやらいたって普通の事情聴取を警官とその人達はしてるみたいだ。少しばかり安心する。この調子で行けばすぐにでもそばを通過できそうだ。
 あらかた読み終えたので月刊誌だけ買って、何気なく警官達の横をすり抜けていく。よし、これは巻き込まれずに行ける――、
「そこの君、ちょっと待ちたまえ」
 ――わけがなかったか。残念。屈強ないかにもな警察官に呼ばれてしまう。人が多いからと知らんぷりしようと思っても、肩をがっちりとつかまれたんでは話にならない。しかも何気に強く握るから痛いし。
「……何か用ですか? 俺、急いでるんですけど」
 引き止めた警官に向かって出来る限りの不機嫌をあらわにして言い放つ俺。明らかに協力する気これっぽっちもない態度をあからさまに見せても警官は動じない。そこまで職務に忠実なのもいかがなものかと思うが。
「この事情聴取は任意ですよね。でしたら俺には断る権利があるはずですけれども」
 用件があるなら早く済ませてほしいし、ないなら早く開放してほしい。あくまでもこの場を逃れたいと言い張る俺に対して、警官はばつ悪そうにするだけ。こんな仕事ぶりでこの街の治安は大丈夫なのかと心配にもなる。
「それでは失礼します。お仕事がんばって――」
「ああ、呼び止めてもらったのは僕です。そこまでこの人を邪険に睨まないでいただきたいものです」
 会話を強制終了させて立ち去ろうとしていた俺に対して、歩み寄る人物が一人。先程警官を顎で使ってた少年(?)だった。苦笑いを浮かべる様子は中間管理職の苦労を思わせる。
 後はいいですから、と懇切丁寧に言ってはいるものの、少年(?)がやっている行為はやっぱり警官を顎で使う事に他ならない。どうやら警官たちもそれがあまり気に入っていないらしく、不満げな顔をあらわにしている。
「それで、急いでる俺を引き止めてまで聞きたい事って何です?」
「え、ええ。そうでしたね。別に聞きたい事はないんですよ」
 嫌味たっぷりに言ってやった俺の言葉をあっさりと流しつつ、少年(?)は丁寧な言葉つきと礼儀正しい物腰でにっこりと笑った。
 面倒だから早く帰りたい、彼の言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのはその言葉だった。
「あなたも知ってますよね、この頃近辺で起きてる事件のコト」
「――またその話ですか。いい加減聞き飽きたんで帰っていいですか? 家で待ってる人がいますし、急いでいるんですけれども」
「まあまあ、ニュースよりは詳しい事情説明ができますから、それで大目に見てはくれませんか?」
 ね? なんて手を合わせながらお願いをする少年(?)。
 一瞬そのしぐさが妙に似合ってて思わず聞いてあげようか、と気に傾きかける。いけないいけない。こんな事だと時間を更に取られることは必至だ。冷静になれ。
 でも、これを素でやってるのか計算づくでやってるのかは正直判別できない。もし前者だとしたら、コイツの年齢を本当に知りたくなってくるだろう。俺より下なら許せるが、これで初老と同期だったら間違いなく殴る。犯罪? 知った事か。そんな年でそんな動作をとる方が悪いんだ。
 だからってここまで言われたんでは断りづらい。拒絶して不振がられるのも実に面倒くさいので、ある程度の妥協点を見出さないといけないようだ。俺はあきらめて深いため息をもらした。
「要点だけ話してもらえると助かります。こちらの時間も無限ではないので」
「それで十分です。こっちとしても大きく助かりますから」
 にっこりと無邪気な笑みを作る少年(?)。だが気をつけるべし、悪魔とはほほえみを浮かべながら近寄ってくるものである。
「事件の事はあらかたニュースでも流されてるので割愛《かつあい》させていただく事にして、これが明らかに不可能犯罪なの分かります?」
「施錠をしてある家に侵入し犯行に及んでる上、さらに施錠して出て行ってしまう手口が取られるからでしょう。しかもただの施錠じゃない。絶対にかけようのないチェーンまでもがご丁寧にかかっている」
「その通り、まるで誰かが内側から犯人を外に出すためにわざわざ開閉したのか、それとも始めから扉には手付かずなのか。どちらにしても通常の手口では考えられません。ですからトリックは後回しにして、家内に残っていた証拠から犯人を見つけてみせますよ」
 絶対の確信を込めて主張する目の前の少年(?)。
 言いたい事はよく分かる。トリックが掴めないなら、それはさておいて物的証拠を見つけだして、それを元に捕まえてから吐かせればいいだろう。でも、そうするなら俺への聞き込みはなお必要ないはずだ。
「なら、もう俺には関係の無い問題ではありませんか。後は貴方たち税金で飯《メシ》食ってる人たちの仕事であって、俺には何もできませんよ」
「いや、実はそうもいかないんですよ。何しろ犯人はどうやらこの鉄道を使っている者のようですから」
 ――世間話の延長のように言われて、思わず答えに困った。この場合、なんて言い返せばいいんだろうか。俺のささやかな日常があっけなく崩壊する、そんな感じ。こう、つみ上がったブロックの塔に誰かがいたずらでつっついた、その時心にできる空虚に似ている。
 少年(?)はなおも天使のような笑顔で続ける。
「年齢、職業、交友関係。被害者たちの共通点は一見皆無でした。ですが、皆さん通勤通学にこの路線を使った事までは分かっています」
 じゃあ犯人がこの電車で品定めをして、犯行に及んでいると――。
「それで被害者の定期購入区間から十数個の駅を割り出し、こうして一斉に調査をしているわけですよ」
「それはご苦労様です。でも俺はお役にはたてませんよ」
「やや、それぐらいは分かっていますよ。いくらなんでもいきなり犯人の心当たりがあると言われても困りますし」
 少年(?)は持っていた紙袋の中から何かを取り出し、俺の賛否お構いなしに手渡す。人の話ぐらい聞けと言いたい所だが、ここは黙っておくのが一番だろう。
 手渡されたのは紙切れ。それを裏表じっくりと眺めて、ようやく納得がいった。
「そこに書かれている電話番号が対策本部のものですから、何かありましたら110番ではなくこっちにかけてくださいね」
 それは名刺だった。どんな立場にいるどなたかの名前と連絡番号が記された、ありきたりだけど学生の俺には無縁のもの。なにかの呪いか、その隅には絶対に捨てないでください、と丁寧に書かれている。しかも手書きで。
「破る」
「ああっ、お願いですから僕も仕事なんで、目の前で捨てるのはやらないでください」
 ……そこまで言われたんでは仕方がない。鞄を開けてその中にしまう。そして俺は早々に踵を返した。
「それでは俺は失礼させていただきますね」
「ああそうそう、この事件の共通点はこの路線だけです。あなたが襲われる可能性も否定できませんので、注意してくださいね」
 ものの見事に無視したよ少年(?)。しかも極上の笑顔で世の中の常識を子供に教えるかのように。人間偉くなると人の話聞けなくなるのか? それとも全部俺のせい?
「それでは情報お待ちしてますからねー」
「……」
 軽く会釈をするだけの俺に対して、最後まで天使のような純粋な笑顔を見せつつ少年は手を振った。何だか別れ別れになる親友みたいな感じだけど、当然俺と彼とは初対面だ。そして今後も会いたくない。
 定期を自動改札機に通しながら、もらった名刺を眺める。名前の記載があの少年のものか、それとも対策本部の人のものかは俺にも分からない。
 家に帰ろう。余計な事は考えず、ただ俺は俺の日常を過ごすだけだ。それは誰にだって変えてほしくない。だって、誰にだってある普通の生活を望んでるだけだし。
 帰る方向の電車が止まる。俺は駆け込み乗車をする前に、とりあえず名刺で鼻をかむとゴミ箱へと放り投げた。
「捨てたんじゃなくて別の用途で使用したんだから嘘はついてない、と」
 当然屁理屈以外の何物でもないが、金輪際俺は関わりたくないだけだ。
 だってほら、脆弱な俺がピンチになっても警察が起死回生の一手がうてるわけじゃないし。

「ただいまー」
「お帰りなさい、カズ」
 家に帰ってのあいさつ、返答はたった一人分。しかもその返答は両親のでも兄弟のでもない、凛とした声だった。
 自宅は何の変哲もない一軒家。築何年なのかは知らないけれど、とにかく結構年期が入っているらしい。生活臭が染み付いていてもまだまだ現役、これから十年も二十年もこき使おうとお父さんが購入したものだ。一応俺たちの個室は個別に与えられたあたり、結構太っ腹だなーなんて感動してる。
 玄関に出ている靴はせいぜいサンダルぐらい。ならお父さん達は帰ってきていないのだから、いるのは自然と彼女だけになる。
 紐をほどいた靴を丁寧に隅にやり、冷蔵庫にまっしぐら。立ち読みをしてたせいか、喉が渇いた。お茶お茶。
「待ちなさい、あなた外に出ていたのよね」
「……まあ、そうだけど」
 そんな俺の思いを無情にも遮るような強い口調。聞きなれてはいるけど今はなるべく聞きたくない声だ。まさか俺、衣食住すら権限なし?
 ため息をもらして振り向く俺の視線の先にいたのは俺と同じ年齢の女の子、俺は彼女をゼロと呼んでいる。絹のように艶やかな長髪をかきあげる優雅なしぐさ付きの、実に自然な発言だ。言い方に毒がなければもっといいんだけれど。
「外は今でも大雨、風も強いわね」
「そうだな」
「なら私が言おうとしている事も理解できるわね」
 ――ああ、なるほど。俺は比喩じゃなくシャワーを浴びた状態になっているから、上も下もびしょぬれなんだった。うわ、下着までびっしょり。言われてから気づいたけど、俺が歩いた廊下も水溜りができてる。雑巾がけするとワックスが取れるからイヤなんだが。
「全く、あなたはいつまでたっても謹《つつし》みを覚えないのね。もっとしっかりなさい」
 何もやらないゼロにだけは言われたくない。しかも家や服が汚れた事より俺自身の態度をまず責めてくるあたり根性が悪い。それでも自分の責任を放棄する気も責任転換する気もさらさらないから、文句は口にしない。
 無言で頷いて制服を脱いでいき、かごの中に入れていく。さすがにこのままだと風邪をひくし、それはごめんだ。ひいたあかつきには間違いなくゼロから嫌味を言われるに決まっている。
「お風呂は既に入ってるわ。冷めた体を温めなさい」
「え?」
 シャツのボタンに手を伸ばす俺に、さりげなくゼロは促した。本当に自然にその言葉がつむがれたからか、その意味を理解するのに時間をとられた。
 今、何だか聞きなれない言葉を耳に入れなかったか? 俺の聞き間違えか? それともこれぞ奇跡なのか?
「ゼロ。今、なんて言った?」
「お風呂は入ってると言ったわ。耳の掃除をしたら?」
 今の言い方は気になるけど、そのまごころに俺は感動。どうやら俺は、ゼロの事を長年大きく誤解していたようだ。
 思えばゼロといえばマイペース、性悪、イヤミが真っ先に思い浮かべるあたり、俺は彼女で苦労しているのだろう、との考えも昔の事。今、俺の心にはゼロの心が岩清水がしみこむようにじぃぃぃんと響いてる。
「ありがとうな。わざわざ俺のために」
「今日は寒いし、私が入った後だから」
 前言撤回。やはりコイツとは一度決着をつけなければいけないようだ。俺の感動を返しやがれ。できれば利子付きで。
 もちろんそれが断る理由になるはずもなく、おとなしく入浴させてもらう事にした。当然丁寧に体も頭も洗った。気分がのったので、時間を三十分も割いてゆっくりと湯船につからせていただきました、まる。
 軽めの夕食を俺が作り、たった二人の夕食が始まる。今日のメニューはカレーライスで、時間がなかったのでレトルトに逃げた。
 テレビは食事中につけない方針だ。テレビにばかり夢中になるばかりで料理のありがたみを全く分かってない、がゼロの意見。俺も正直、バラエティーばかりのゴールデンタイムにやる番組には全く興味がわかないのでそれに賛成した。
 したがって自然と静かな食卓になる……が俺の理想なんだけどな。そう俺の都合よく世界は回っていないらしい。
「――ってコトがあって遅くなった。これ以上は鬱陶しいから何かいいアイデアくれ」
 その代わりにゼロは俺の学校での話を求めてくる。朝休みに誰それとこんな話題で盛り上がった。授業はこんな感じの内容がやって、誰が寝ていたのが目に付いた。体育ではこんな競技をやってこんなヘマをした。えとせとらえそせとら……。俺の場合、結構この手の話題に尽きる事がない。クラスメイトが個性的なせいで飽きが一切無い。
 しゃべるのは一方的に俺、でもない。ゼロは質問する時はするし、しない時はしない。その時の気分次第らしいが、俺がしゃべる事はほぼ日課だ。自然と言葉のキャッチボールが行われるんだけど、彼女が自分の事を話してくれる時がほとんどないので、成り行き上俺の事が話題になる事が多い。
 もちろん今回は俺の今日体験した事を話した。特に現代社会で宿題を強要された愚痴と、警察に捕まった事を強調しておく。
「連続強盗殺人事件、ね。随分と面白い事件もあるものね」
 ふっ、とすまして笑うゼロ。と同時に流し目をするしぐさに鼓動が一瞬高鳴る。
「面白い、ねえ……」
 余談だが、カレーライスは庶民の料理だったはずだ。なのになんでこうゼロが上品に食せるのか、俺には理解できない。
 そんな俺の思いをよそに、ゼロはナプキンで口の周りを拭いてスープに手をつける。絹のように艶やかな長い髪が邪魔にならないよう、片手でかきあげるしぐさまでするのは気品があり、憎らしい。
「それで、あなたは警察とその少年に素っ気無い態度をとって帰ってきたと」
「面倒な事には関わりたくない。それとも持って帰ってきた方がよかったのか? あの時にもらった名刺を」
「冗談でしょう。そんなものを持ち帰ってきたらどうなるか、あなたにも容易に想像できるはずだわ」
 できても想像はしたくないし、正直ゼロを抜きにしても俺は持ち帰りたくない。俺はなるべく警察とかと関わる生活を送りたくないのが本音だ。別に警察そのものに恨みを持つ理由もない。単に俺たちが避けたいと思ってるだけだ。
 食事の時間が静かに過ぎていく。食器の音だけが合奏のように聞こえる。再現不可能で一時的な音楽。楽譜がないから全部アドリブ。あって再現した所で同じ感動は絶対に味わえない。
 話題もつきてしまったので話す事は何もないし、後はこの時間を終わらせるだけだ。自然と食に専念する事になり、ペースは速まる。
 まず俺が食い終わり、彼女がそう時間をおかずに食を終える。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 お互いに手を合わせて礼をし、俺は食器を片付ける事にした。食事を作ったほうが後片付けをするのが家の決まりだから、今日は俺が皿洗いだ。
 まずは調理に使ったボールに水をためる。お茶碗についたごはんを落としやすくするにはふやかすに限る。たまったら皿を落としていく。皿は深さもないからあっという間に沈みきってゆく。
「ねえ、カズはこれからどうするつもりなのかしら。通学路にこの事件の犯人とやらがいるのでしょう?」
 音を立てずに沈んでいく皿を眺めながら、俺は更に皿を静かに沈めていく。イメージで擬音つけるならずぶずぶ。
 ダイニングキッチンだからテレビを見てるゼロの声もクリアに聞こえてくる。耳に入るのは彼女の声と、彼女が見ているアニメだけだ。
「……普段どおりの生活を送るまでだ。今送ってる生活と変わる事はない。ただそれだけの話――」
「カズ」
 ゆっくりと沈んでいく皿は静かに他の皿とぶつかり、動きを止める。
 食器から視線を離してゼロへと向ける。彼女は笑みの一切ない、若干怒気がはらんでいるものの表情が無い。食器の立てる音もさせてないので、アニメで女賢者が主人公を諭すシーンがよく聞こえる。
 こんな顔をしているゼロとは話したくない。このゼロが言う事は俺の主義主張とは正反対な、かつ俺が逃れられない言葉だからだ。あらがえない呪文、それをゼロは持っている。
「私はあなたに数多くの体験をしてほしい。どんなに嬉しい事でも、またどんなにつらい事でも」
「突然何を――」
 まっすぐに俺を見つめるゼロの瞳はどこまでも深い大海を思わせる。俺の全てを覆い、飲み込んでしまいそうなほど深い。手を伸ばせば思わず引き込まれるほどに。逆に退けば大波でさらってしまうほどに。
「私、あなたの送る道はとても好きよ。どんなに平凡でもどんなに波乱に満ちていても、私にとってはそれは心に刻まれてゆく大切な思い出。それでもあなたが平坦な道を選ぶなら、私は快く受け入れてあげるわ」
「ゼロ……」
 はにかみを含むその表情。それを見てしまうと俺はなんとも言えなくなってしまう。
 時々ゼロが見せてくれる表情はたまらなく好きだった。本当にたまにしか見せてくれないけれど、いつもこの表情を見るたびに、ああ、次もがんばろうって気になれる。
「まるでカズの歩む道は叙事詩ね。今にあなたは英雄にだってなれるわ」
「……俺が目指すのは市民Aなんだけどね」
 ゼロは紅茶にミルクの粉を落としていき、マドラーで静かにかき混ぜる。それに合わせてミルクの白と紅茶の紅がうずをまく。
 自然と笑みがこぼれた俺は仕事に戻ることにした。スポンジと洗剤を手にとって、いざ……の所で気づいた。
「……洗剤がないじゃん。これじゃあ皿が洗えない」
 容器をひっくり返しても空は空で変わりなし。叩いても振っても一滴たりとも出てこない。そのしぐさにゼロが口元に手を当てて、静かに笑う。
「だから食器洗い乾燥機買いましょうって言ったのよ。あれなら洗剤の量も少なくて済むし、何より手間がかからないわ」
「いや、はるか前の問題として、ゼロに洗剤買っておいてくれって俺言わなかったか? ゼロが外に出られない事ぐらい熟知してるけれど、今は宅配サービスしてくれる所もあるんだがな。ぜひそれぐらいはやって欲しかったのですがねえ」
「あらごめんなさい。次からは善処するわ」
 嘘だ。絶対に嘘だ。しれっと言い放つゼロがあてになった事は、今まででせいぜい両手で足りる程度の回数だ。年中同じ事を言い続けてそれなのだから、確率で表せば一パーセントは間違いなく切っている。。
 いや、あてにならないって表現は半分あってて半分間違ってる。電話をしてバイトたちをこき使う事だって十分に可能なはずだ。ゼロは間違いなく確信犯で、俺の反応を見て楽しんでやがる。
「……スーパーに行ってくる。留守番よろしく」
「ついでにシャンプーが切れそうだから買ってきて頂戴。いつものやつをよろしく頼むわ」
 はいはい、と本当に適当な返事とひらひらさせる手をあいさつに、俺は雨ガッパを着こんで大雨の中を行く事にした。畜生。
 風が吹いて横殴りになった雨を体いっぱいに受けつつ、しけた街灯の下を足早に歩く。大きな水溜りを踏もうとも、履いてるのは長靴。幼い頃に戻って水遊びだってできる。やる気はないけれど。
 まだ日が沈んでから時間も経っていない。サラリーマンがちらほらと帰ってくる時間だから、いつもなら人通りはまばらではあるけれど無い事もない。でも、今日はまるで俺が通りを支配してるように誰もいない。
 今頃ゼロはラジオつけて本読んでるんだろうな。悠々と音楽番組見ながら。そして俺は見たかったドキュメンタリーを見逃す、と。
「こんな事だったらこの前の休日に買いだめしとけばよかった……」
 ちなみにそのドキュメンタリーはちゃんと録画させていただいてます。映像のきれいさは生には及ばないが、見逃すよりはるかに優れた選択肢だ。
 帰ったらとりあえず宿題に手をつけて、その後でそれを見る事にしよう。ついでに深夜アニメにでも手をつけて……なんて事を考えながら俺は足を進めて――、
 神秘的な少女に出会った。
 流れる長髪はまるで天の川。あどけなさの強いその容姿は既に美貌を持ち始め、瞳は正に宝石。すらりとした腕や脚は花のよう。きめこまやかな肌とそれを覆う服が調和し、そこに別世界を作り出している。見た目で言えば十代半ばだろう。
 美術の時間でデッサンとかをする場合、直線と曲線を重ね合わせて実線を得るはず。なのに彼女が持つ身体のラインは髪以外が曲線しかない、としか言いようがないほどなめらかだった。
「――嘘」
 こんな人を見せられたら思わずつぶやかざるをえない。男は一瞬で舞い上がり、女は嫉妬の渦を巻き起こす事は必至だろう。テレビで見かけるアイドルとは比較にならないほどの姿に、こちらの心は揺れ動く。
 彼女は傘どころか雨具を一つも持っておらず、雨にさらされ続けている。塀に両手をつきながらなんとか歩く様子は、なめらかな動きのせいでより弱々しく見えてならない。そして彼女に会ったのが夜の大雨強風なこの状況だ。
 まだ二十年に満たない人生しか送っていない俺でも断言できる。この状況で動作を起こせば間違いなく地雷を踏む、と。彼女が抱える事情は初対面の俺には当然分からないけれど、ただ事ではないのは十分に理解できる。
「あの、君。大丈夫か?」
 地雷? 厄介な出来事? 知った事か。こんな状況で何もしないのは人間としてどうかしてると俺は断言する。どんな事態に巻き込まれようとも俺はかまわない、と覚悟を決めて声をかけた。
「その、大丈夫なのか?」
 返事がない。の、表現よりまるで反応がない、が当てはまる。俺に視線を合わせようともせず、遠くを見据えている。俺がそこいらに転がる小石と同程度にしか感じていないのか、それとも俺が確認できないほどの事情なのか。吐息は小刻みで、聞いていられない。
「……くっ」
 でも、親切を押しつけるのは大きなお世話に他ならない。俺に反応を示さないのは俺を必要としないからだろう。なら俺がこれ以上でしゃばる事はできない。
 彼女と出会って数秒。お互いに無言で、何も起こらなかったのようにすれちがう。それはあたかも毎日ある一コマと同じで、無数の他人と行き交うのと同様だった。少女はその焼き増しのように俺の後ろを逆方向に進んでいくんだろう。
「あー、この話、ゼロに聞かせたら何て言うだろうな。でも言いたくないな……、絶対に言わない。決めた。今回のおつかいは平凡でしたー」
 自分でも良く分からない伸びをしながらひとり言を呟くあたり、末期症状とかに当てはまるかもしれないけど、もうどうでもいい。今の俺の心はこの天気と同じで、どんな事をしても晴れそうにない。
 ……ゼロに話を聞いてもらうかな。
 こんな天気でこれ以上自分の世界に浸っててもなんの面白みもないので、とっとと近くのスーパーで洗剤とシャンプー、それから俺の好きな特撮ヒーローの玩具入り菓子を買う。これぐらいの駄賃代わりをもらわないとやってられない。
 雨ガッパの内側に品物を突っ込んでおき、意気揚々とはほど遠い気分で帰路につく。帰り道も行きと同じで、大雨大風が襲う悪路に変わりない。考える事もないので俺は足早に進んでいく。
 さっき不思議な少女と出会ったところまでほんの少しの場所まで来る。そういえば彼女、今どうしてるのかな。そんな風に考えをめぐらしていて、
 ――ソレを見て、俺の背筋が凍った。
「……え?」
 だから、呆けた声を出すのにも数秒を要した。
 近くに立つ新築の十階以上あるマンション。薄暗いソコに映し出されているのは影絵だった。それも、マンション全てを覆うほどに大きく、カタチは空想世界でしかお目にかかれない悪魔のような禍々しさ。どう見たって現実の生き物どころか存在ですらない。
 太陽光がないから自然と街灯の光が影絵を作る原因で、光源との距離が近い夜間だったらあれだけの大きさになるのは分かるし、シルエットだけならいくらでも小細工で変える事ができる。もしかしたらあれもそんないたずらかもしれない。
「そ、そうだよな。まさかそんな事があるわけないよな」
 自分で自分を説得させるとは、俺も相当精神が参っているらしいな。自分でも自覚できてしまうこの事実に、思わず頭をこづいた。
 直感を常識でねじ伏せて、進行方向へと無理やり足を進める。馬鹿馬鹿しい。悪魔が実在なんかするものか。そんなのが実在するのは空想世界だけで十分だし、現実にはそんなものはいやしない。あれだって幼稚な子供がやったトリックに決まってる。時間は遅くなってるし、もう遊びの時間は終わりだ。犯人にはゆっくりと灸をすえてやる必要がありそうだな。今後のためにもな。
 そんなふうに無理矢理考えを走らせる俺ではあったが、もはや直感ではなく本能の領域で警鐘をかきならす。
 これ以上進むな、遠回りでいいから引き返せ。
 これ以上にないほどに的確なアドバイスありがとう、でも俺は進むよ。散々言い聞かせて進行続行。ソコでカズキが見たものは、とバラエティー番組のようなあおりを考えながら十字路を曲がって、
 本当に見てしまった。
 今度こそ言葉を失う。身体は動きを停止する。だから、視線はソレに釘付けだ。
 一見すると何の変哲もない、普通の町並み。昼間でも夜間でその印象は全く違うけれど、その在り方が変わる事は絶対にない。少し広めの脇道の街灯は一つも明かりを消す事無く煌々と輝く。大雨もそれではっきりと映されて不思議な印象を抱かせる。人がいれば題名、寂しい闇夜の風景が出来上がりだ。
 それが、どうしてたった二つの事柄でここまで変貌できる?
 街灯の下にいるさっき俺が通り過ぎた不思議な少女と、倒れているサラリーマン。そして、少女の影が少女の形でなく男性の影はバラバラにされている。
 少女はただ身体全ての力が抜け落ちたように立ちつくし、星も見えない漆黒の空を仰ぐ。少女の影、いや、ソレは身体を震わせて歓喜をあらわにしているような動作を取る。
 何だよ、ソレ。
 よろめく体を何とか壁に手をつく事でささえる。それでも足腰がしっかりしていないのか、体が震える。後ろに下がろうとしても逃げるために体の向きを変えようとしても、足が笑っていて動かない。蛇に睨まれたカエルのように俺はソレに目を奪われていた。
 ソレが動く。俺の方へと伸びていく。
「あ……」
 動く事に頭が回らない俺には逃げる事すらできない。ただソレに何かをされて、あのサラリーマンのように倒れるのか、とあっさり思ってしまう。
 俺にはソレが影であるにも関わらず、笑っているように見えた。
 ……。
 ……。
 ……?
 思わず目を瞑ってすくみあがってしまった俺だったが、恐怖はそのままだけど想像した死は一向に訪れない。
 いつまでたってもやってこないので、おそるおそる目を開けて確認してみる。
 少女は天を仰いだまま膝を突いた状態になっている。街灯に照らされてできた彼女の影は少女の体を偽りなく映しだしている。そこに異常は一切なかった。
 どうやら俺が見た幻覚か、と現実逃避をしたかったが、倒れているサラリーマンが否応なしに現実へ引き戻す。
「あ……」
 ビルに映し出された悪魔も、ソレが少女の影だった事も、ソレが笑って俺に襲い掛かってきた事も。
 全部が、実際に起こった事。
「ああああああ――!」
 駆けた。自分でもわけ分からなくなるほどに大声で叫んで、走った。考えられる思考力も全くなくなっていたから、少しでも早く安心できるようにと家のある方向、つまり少女がいる方向に、だ。
 いつまたソレが襲ってくるかは分からない。二次元のソレが三次元の俺をどうこうできるのか、とかは本当に関係ない。もはや恐怖が理性を軽く凌駕していた。
 足が取られる違和感。と同時に俺は水溜りに顔をぶつけていた。疾走していたのでかなり勢いよく。全身の痛みなんかどうでもいい。そんな事より転んだという事実の方がこの場合はるかに重要だ。
「は……離せよっ……!」
 いつの間にか足首を掴んでいた手を振り解こうとするけれどうまくいかない。パニックに陥ると何もできないんだな、なんて心の底で受け止める。
 転んだ原因は足首を掴まれたため。その犯人は通り過ぎようとしていた少女だ。彼女も俺の足首を掴んだせいか、地面に倒れて顔と髪を汚していた。面が玲瓏な事が彼女の汚れた姿を一層恐ろしく際立たせる。
「はっ離せよ……離せよ離せよ離せよ……!」
 彼女に力がないのは分かっているけれど、俺も体に力が入らない。振りほどけない。無様に座ったまま後ろに下がろうとするだけだ。
「離せよってばっ!」
 ようやく俺を掴んでいる手に蹴りを入れる手段を思いついて実行に移そうとする。容赦なんかしない。相手の骨が折れようが、俺は今から逃れたい一心でそれを行った。
 だからか、その行動を止められたのは自分でも不思議だった。
 彼女は何かを懇願するような、なのにどこか罪悪感にとらわれた複雑な表情があって、見るものの心を必ず動かす何かがそこにはあった。
 こんな表情を俺は見た事がない。普段の生活を送っていれば間違いなく無関係になるだろう、絶望の淵にいてただ救いを求めているような痛々しい印象。
「助けて……」
 複雑な表情をそのままに、彼女の言葉がつむがれた。
 それには全てが含まれてる。態度も口調も、全てがその一言に集約されていた。それがどんな意味かは分からない。たったそれだけの言葉だから、深い意味にも浅い意味にも取れる。
「お願い……助けて……」
 大雨だからこの目で見ても確かめられない。けれど、彼女は間違いなく泣いていた。哀願でも懇願でもない。ただ心の底から助けを求めていた。
 静寂。俺と彼女はお互いに目線を合わせて、その場で何もできないでいる。今俺がどんな表情をしてるのかは俺にも分からない。ただ、多分鏡を見たら普段見ることの出来ないようなものなんだろうな、と自覚はある。
 絶対に関わるな。なおも警鐘はうるさいほどに鳴り続ける。
 影のアレは絶対に俺の手にはあり余るし、絶対に関わるべきじゃない。何なのかも分からないまま関われば、そばで倒れるサラリーマンの二の舞になる事は明白だ。でも、助けを必死に願う少女だけを見るなら絶対に見捨てるわけにはいかない。それはさっき彼女に声をかけた時と変わりない。
 ゼロ。俺はおまえが好みの叙事詩、それを否応なしに読み始めてしまったらしい。


続く

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