#01 流れ着いて




 潮の香りが微かに鼻腔を突く。
 一歩足を踏み出すごとに湿り、足の裏に纏わり付いてくる細かい砂に顔をしかめながら、二体の生き物――ポケモンが、人気の無い海岸をのっしのっしと歩いていた。
 一体は、体長はおよそ一メートル半ほどで、頭部から生えた納戸色の突起を含めると全長はもう若干伸びる。全体としてのイメージは青、太くがっしりとした印象を与える四肢を持ち、陸上を難なく歩行し、水陸どちらにも適応可能な生態を持つ。その名をラグラージというポケモンだ。
 もう一体は体長二メートル近くの、背に巨大な翼を負った橙色のポケモンだ。ラグラージとは別の意味での威圧感のある姿はどこか竜を想わせ、逞しい尾の先には消える事の無い薄赤の炎が灯っている。こちらはリザードンと呼ばれる。


 ふと前に出す足の動きを止めて、ラグラージ――パサラは、額に薄っすらと浮かんだ汗を拭った。
「やれやれ、まだ先は長そうだな…」
 汗を拭ったその手を額に当て遠方を見やると、文句ともつかない呟きがこぼれた。
 その顔を覗き込み、リザードン――ヒエンは口の端をにやりと吊り上げる。
「おう、もうへばったのか? 情けないねぇ、『家に帰るまでが救助活動です』ってママに言われなかったんか」
「残念ながら、そんな台詞吐く奴には未だに出会った事が無いな」
 素っ気なく切り捨て、パサラは相方の微笑を見上げた。
 気持ちの良い笑顔。口の端から覗く白い歯といい、半日近く歩き詰めなのにこの陽気さである。タフと人は言うが、感覚が鈍感なのかもしれないとパサラは感じている。今は単純に、天候の所為かも知れないが。


 パサラとヒエンは、歩みを戻す事半日ほどの場所にある、広い樹海から帰る途中であった。旅行や道楽の理由ではなく、言うなれば『仕事』での遠征だ。彼らは知り合いの頼みで、樹海に迷い込んだ子供ポケモンの捜索を頼まれていたのだった。
 二人の仕事は、受けた依頼に応じて探索から救助までを一手に引き受ける『ポケモン救助隊』。文字通り、災害や遭難などの被害からポケモンたちを救助する組織の通称だ。《カスケード》と名乗る彼らの救助隊では、パサラとヒエンはそれぞれリーダーと副リーダーを務める身である。


 少なくとも彼らの視界に入り得る限り、海岸線はどこまでも続いていた。遮蔽物の無い、見通しの良い砂浜。寄せる波に弾かれた日差しは眩しく、そしていつも増して厳しかった。その身に炎を灯すだけあってヒエンは別段平気な様子だが、逆に両性種とはいえ、水分の富んだ土地を選んで生息する種族であるラグラージのパサラにとっては、この天候は良くもあり、悪くもある。
「天気がいいと気分もイイぜぇ。仕事終わりの疲れも吹き飛ぶってもんさ。ところで、何の話だったっけ」
「…………。深海探査における炎ポケモンの行動指針と具体例について?」
「ウソつけ」
 咄嗟に出た出鱈目をすっぱりと切り返すヒエン。どうやら分かっていて聞いたらしい。
 追求するわけでもなく、少しの間を空けてから、
「考え事か?……まぁ、こっちは独り言みたいなもんだから気にゃしねぇけど」
「いや、別に聞いてないわけじゃないよ」
 パサラは小さく頭を振った。単に興味が無いだけ――といった様子でもない。一応は事実なのだろう。
 それを証明するかのように、パサラは文書を読み上げるようにすらすらと、
「三日前の依頼での騒動、カクレオンさんの露店で見た道具の話。それと……道場に入り浸る隊員が増えて嬉しいやら寂しいやら、って話だったかな」
 ヒエンが呆れたような表情を作った。
「……覚えてんなら、ちゃんと答えろよ」
「誰かさんに似たのさ」
「ぬかせ」
 ヒエンは渋い表情で言い返した。くっくっ、と喉の奥で笑い、パサラはふと、眼前に広がる海にその視線をやった。
「考え事、ってのは正解だよ」
「ん……」
 波打ち際で奏でられる不規則な和音の中にさえ溶けてしまいそうな、静かな声だった。
 所在無げに瞳を持ち上げたヒエンは、相棒の横顔に何処か寂しげな色合いを見た気がした。
「悩み事なら聞くぞ?」
「悩みと言うか……この世界に来て、いつの間にか忘れていた感覚なんだけど――」
 そう言いかけた所で、パサラは不意に口をつぐんだ。
「パサラ?」
 訝るヒエンは、相棒の視線を追った。
 これから進んでいく白磁色の砂浜。百メートルもの距離も開かない程の場所に、波に打ち上げられたのか、薄緑の物体がぽつんと転がっていた。それを見た瞬間、ヒエンの胸を言い様の無い不穏な感覚が貫いた。
 同じような感覚をパサラも抱いたのだろう。
「ヒエン!」
「ああ、あれは……!」
 言うが早いか、二人は同時に駆け出していた。嫌な焦燥感が胸を押し上げ、圧迫している。海草やその類ではない、砂地に身じろぎもせず転がって――いや、横たわっているのは、紛れも無く彼らと同じポケモンであった。




 ハーブポケモン、ベイリーフ。浜辺に打ち上げられるという状況には似つかわしくない、草タイプのポケモンだ。
 薄緑の四肢は力無く投げ出され、半分砂に埋まった顔には明らかな死相が浮かんでいた。海で溺れたのであれば、海水を飲んでいるかもしれない。種族にも寄るが、塩分を含んだ水が草ポケモンの身体に良いとも思えない。傍に駆け寄って一目見た瞬間、パサラもヒエンも最悪の事態を予感せずにはいられなかった。
 ヒエンがいつになく緊張した表情で覗き込んでいた。パサラは空気の出入りがあるかを確認するためにベイリーフの傍に跪き、その口元へと手を伸ばした。
 間もなくして、微かな呼気が掌へと当たる。まだ生きている。ひとまず安堵の息を漏らしたパサラの指先が、僅かにベイリーフの頬に触れた。
 その時。
「あ……っ!?」
 捩るようにして身体を反らし、パサラは小さく叫んだ。
「ど、どうした?」
 緊張の度合いを増したヒエンの声が、やけに遠く聞こえる。応える事も出来ず、明滅する視界の中、眉間を軽く押さえながらも立ち上がった。何とか声を絞り出し、
「……息は、している。ひとまずは広場まで運ぼう。ヒエンは先に戻って、ガルーラおばさんにこの事を伝えてくれ。自分はこの子を担いで後を追う」
「下手に動かさない方が良いんじゃないか? 確か医療キットが――」
「素人に、何が出来るのさ。それに自分たちじゃ出来る事も限られてる」



 これといった反論をする事も出来ず、ヒエンはその場を飛び去った。
 相棒の背中が十分な距離まで遠くなると、パサラはその場に崩れる様に尻餅をついた。頭をもたげると、こめかみに響いていた重い鈍痛がいくらか和らぐ。ものの数分で彼の顔からは生気が抜け落ち、呼吸も随分と荒くなっていた。

 ――あの時。

 ベイリーフの頬に触れたその時、まるで夢を見るかのように、パサラの脳裏を鮮烈なイメージの渦が襲った。極めて短い間だったため、すでにそのほとんどは形骸と化してしまっているが、その痛烈なまでに暗澹とした感覚だけは焼き付いたように残っている。
 不安? あるいは孤独がもたらす絶望?
 いまだに違和感の残る指先をじっと眺める。一体何が起こったのか、パサラ自身理解が出来ていない。
「く、……そッ」
 パサラは顔をしかめた。数瞬遅れて激しい頭痛が走り、こめかみを押さえる。視界が意識とは関係なく上下し、明滅を繰り返した。襲いかかってくる耐えがたい吐き気と目眩が、震えとなって全身を包み始める。
 この状態を気取られないためだけに、ヒエンには必要も無い嘘を付いてしまった。
 実際、運ぶだけなら彼に任せた方が良かったかもしれない。しかしパサラには、ベイリーフが生命の危機とかそういう物に瀕しているわけではないという、自分でも奇妙なまでの確信があった。あのイメージの投射と何か関係があるのかもしれないが、それには確信が持てない。
 言う事を聞かない膝を奮い立たせ、這うようにしてベイリーフに歩み寄る。自分の確信も脆く崩れてしまいそうな、ぴくりとも動かないその身体を担ぎ上げる。普段なら巨岩ですら動かしてみせる怪力は鳴りを潜め、移動できる姿勢に持っていくだけでも大変な労力が必要だった。
 先ほどの様な、イメージの投射は無い。走り出してからそれが襲って来たらどうなるのかという不安はあったが、ともかく言った以上は責任を果たさなければいけない。
「やるしかない、…か」
 今にもあちこちから壊れてしまいそうな身体を叱咤し、パサラは砂地を蹴った。
 身体は不調を訴えてはいても、パサラの走駆は滑らかだった。更に言えば、背負っているベイリーフの身体がまったくといっていいほど上下しない。彼は砂がもたらす不安定な衝撃のベクトルを見事に受け流し、ベイリーフに余計な負荷が掛からないようにしているのだ。いつしか会得し、身体に染み付いた自然な動きだ。

「う、ん……っ」
「ん、意識が……?」
「――――。」

 ベイリーフがパサラの肩口にもたれながら、くぐもった声を上げる。言葉にならない寝言のような呟きに、パサラは一瞬眉間に皺を寄せたが、敢えて問い返す事もしなかった。



 何かが、起こる気がする。
 先ほどまで感じていた漠然とした不安の名残か、あるいはそれ自体が増幅した結果か。
 パサラの胸中は穏やかではなかった。一刻も早くベイリーフを届けたいだけでなく、誰でもいいから知り合いの顔が見たかった。まだまだ遠い目的地、ポケモン広場を地平の果てに見やり、パサラは砂浜を蹴る足により一層の力を入れた。



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