#03 邂逅




 るぅぉおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおぉ……

「……また、聞こえた」
 薄闇に染まり始めた空気が、何処からともなく獣の遠吠えを拾って反響した。
 いや、そう聞こえただけで、本当は違っていたかもしれない。何者かが死の間際に上げた断末魔の声だったかもしれない。あるいは悪鬼が耳元で囁く、呪詛の言葉だったかも――不安は不安を呼び、恐怖は一気に増長していく。
 果たして、自分は何をやっているのだろうか。

 そこは、高い戦闘能力を持つポケモンが生息している事で知られる島だった。
 大陸から位置的に離れた孤島という環境が淘汰を生み、そこに生きるポケモンの生存力を飛躍的に増大させたとも言われており、この苛酷な環境は過去に多くの侵入者を飲み込んできた。
 立ち入る事自体が禁忌とも言えるのに、挑戦しようとする者は後を絶たないのだ。腕試しと言って安易に突入し、結局力尽きて帰れなくなる。救難信号を出しても、救出に向かった救助隊がそっくり行方不明になった例もある。
 いわば禁断の土地。
「だから来たくなかったんだ……」
 彼、ラクライのライデンは、その業界では名の知れた救助隊に所属していた。彼自身は実戦の経験も浅いが、何かあった時にはいつでも的確な行動が出来るよう、日々の訓練を怠ってはいない。
 この日もその、訓練の一環だった。同じ隊に所属する先輩に連れられ、この島に立ち入った。
 腕試しのつもりではない。この状況下で生き延びる事は、それだけで大きな経験となる。訓練には最適なのだ。
 彼を誘った先輩曰く、油断さえしなければライデンでも島のポケモンには太刀打ち出来る、自分の後ろにしっかり着いて来れば大丈夫だ――と言う事なのだが。
 その先輩は今、彼の傍にはいない。

 時間を遡る事、数時間。
 何とか視界の内に捉えていた先輩の後ろ姿を見失ったのだ。鬱蒼と繁った密林。一度はぐれてしまっては次にいつ会えるかどうか、無事かどうかも分かりはしない。先輩の名を叫んで、当ても無く走り回った挙句がこれだ。
 底の無い沼に半身を奪われた感覚。迂闊な行動ひとつで、その身は浮かび上がる事の無い闇の中へと消えていく。
 下手に動かない方がいい、と結論付けたのが数分前。じっとしていると、逆にそれまで見えなかった物が見えてくる。

 ぎゃおぉぉぅぅぅぅぉおおお……

 時折聞こえてくる何かの鳴き声は、助けに来た誰かが野生ポケモンと戦っている証か。そう考えれば希望も涌くが、今の彼にはその発想に至るだけの余裕は無い。陰り往く夕闇と言うのは想像以上にその者の心を弱らせた。不安は思考を奪い、さらなる不安を積み上げていくだけだ。
 そう、例えば――自分を狩りの対象とするような獰猛なポケモンに襲われたら。
「…………。」
 さっ、と血の気が引く。
 だがここ数ヶ月、この島に出入りしたポケモンたちの間で囁かれている噂があった。

 誰も見た事が無い姿の、怪物のような強さを持つポケモンがこの島に住み着いているというのだ。

 不確定ながら、実際にその姿を見たと証言するポケモンもいる。
 それによるとその怪物ポケモンは白い体を持ち、闇の中で怪しく光る深い紫の瞳を持つという。
 そう例えるならば、向かいの茂みから、ライデンを静かに見下ろしている長身の生き物のような。

  ―――― !?

 一瞬目を見開いたライデンの動揺を察してか、『それ』は口元に微かな笑みを湛えた。
「あ、……!?」
 言葉にならない叫び声を上げ、慌てて立ち上がろうとするも、身体の自由が利かない。
 動揺が恐怖を呼び、恐怖はやがて、

  すっ

 思考を廻らせる暇も無かった。『それ』が噂通りの白い細腕を上げると、ライデンの身体は吊り上げられた様に宙に浮かぶ。
 もがいても自由は戻らず、まるで見えない腕が自分を掴んでいるかのようでもある。
「ぅわァッ!」
 刹那、ライデンは全身を殴られるかのような衝撃を受け、真横に吹き飛ばされた。
 傍の木の幹に叩き付けられ、鈍い音が上がる。
「が、はッ……」
 肺が押し潰されて、息が詰まった。皮肉な事に、痛みで混乱していた感覚が戻る。
 首を振り、ぐらつく視界の中で相手の位置を確認しようとした時、『それ』は意外なほど近くにいた。
 一瞬、目線が合う。
「何だ……何なんだお前は!?」
 滅茶苦茶に喚き散らしたい気分だったが、口を出た言葉はそれだけだった。
 言葉が通じているかどうかさえ分からなかったが、明確な殺意が向けられている事だけは確かだ。
「――ッ!」
 刹那、ライデンは何も考えずに横っ飛びに跳躍した。一瞬遅れて、今居た場所で岩盤が爆発する。今度は思った通りに身体が反応した。少しでも遅れていたら、消し飛んでいたかもしれない。
 大丈夫だ、いける。
 そう思うと、次の瞬間には胸の奥から怒りや痛みだけでない、悔しさ、怖さ、何もせずに蹂躙される事への抵反逆心。様々な気持ちが胸を押し上げてきて、それをぶちまけようと口を大きく開き、
「だああああああああああああああッ!!!」
 言葉と共に雷光が薄闇の中で爆ぜた。
 ひらりと眼前に舞い落ちてきた木の葉が一瞬で砕け散り、電撃が不規則な軌道で走るのを、ライデンは見た。
 だが。
「―― フン」
 ばしぃ、という耳障りな音共に、『それ』の差し出した手のひらの前で、電撃が強烈な光と共に弾け消える。
 いや、相殺したのだ。自身が発生させた同等の電撃で以って。
「ならさ!」
 その結果を、ライデンはある程度予想していた。
 彼自身姿は小さいが、決して力量の低いポケモンではない。それだけに強い相手と対峙した時は、自ずとその差を感じられる。今がまさにそれだ。悲しいかな最初から結果など知れていた。
 逃げればいいのに、と内心自嘲しながらも、彼の闘争心は揺るがない。これまで積み重ねてきた訓練が、どこまで世間に通用するものだったか試す。今がその時だ。
 次の瞬間、ライデンを中心として、周囲の空間がざっくりと裂けた。
「真空斬り!!」
 それは謂わば風の刃。裂帛の気合が大気を割り、衝撃刃となって周囲の相手に襲い掛かる。
 彼が長い訓練を経て体得した、最大にして必殺の技だ。

 しかしそれも、化け物の前では通用しない。

 ライデンの目には、『それ』の身体が一瞬だけ一回り膨れ上がったように見えた。
 間合いという概念に囚われない無限長の刃を、『それ』は体全体から打ち出した力場で絡め取り、振り払ったのだ。
 最初の電撃はある意味でフェイク。その上で、全身全霊を掛けた必殺技を『それ』はいとも簡単に捌いてみせた。
 神業としか言いようがない。
「くっ」
 『それ』の腕がすっ、と持ち上げられる。と同時にライデンの身体の自由が完全に封じられた。
 念力の類ではない。真正面から当てられた鋭利な殺気が、『恐怖する』以外の行為を選ぶ事を許さなくしたのだ。脳の活動障害、一種の金縛り状態と言える。
「やめてくれ……」
 ガチガチと歯を鳴らし、表情を歪ませるライデンに『それ』が一歩歩み寄った、その時。
 ――それは、起こった。


 身体全体を、不思議な浮遊感が襲った。

 自由を奪われ、吹き飛ばされた時の感覚とはまた違う。身体そのものが粒子となって、遠くへ飛ばされていくようだ。
 数瞬の後、閉じた瞼の向こうに微かな光を見た気がして、ライデンがその目を開けると、
「貴様、どこに行っていたんだ?」
 頭の上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
「……。へ?」
 一瞬の沈黙の後、口を突いたのは素っ頓狂な声。
 目の前で不機嫌そうに自分を見下ろしているのは、見間違えるはずも無く、自分が散々探していた相手だった。
 無機質な印象を受ける真紅の甲殻に身を包み、両腕に巨大な鋏を備え、抜き身の刃にも似た瞳を持つ。
「シンク……先輩!?」
「いつの間にかはぐれていた様だな。正直生きているとは思わなかったぞ」
 ハッサムのシンク。ライデンと同じ救助隊に所属する隊員で、彼が師と仰ぐ相手でもある。
 さらりと酷い言葉を投げかけられはしたものの、ライデンはむしろその事で目の前の人物が幻想なんかではない事を再確認する事が出来た気がした。
「あ、あはは……」
 途端に、ライデンの身体が弛緩した。へなへなと身体の芯が抜けたようにその場にへたり込んでしまう。絶体絶命の窮地から脱した事と、こうして知った顔と再び会う事が出来た安心感で、緊張が一気に緩んでしまったようだ。
「なんだ、情けない」
「す、すみません……と言うか、一体何を……」
「貴様が居ない事に気付いた所に、丁度『集まれ珠』を拾ったのでな」
 あぁ、とライデンは心の中で納得した。
 先刻の浮遊感。あれはシンクが使った道具が、ライデンを呼び寄せた為のものだったのだ。『珠』と呼ばれる特殊な効力を持つ法玉の中でも、『集まれ珠』は使った者の傍に、仲間を一瞬で移動させる効果がある。
 おそらくあのタイミングで効果が発動されたのは偶然なのだろう。感謝せずにはいられなかった。
「ありがとうございました、先輩」
「ふん。……しかし、何やら手負いの様子だが。何とやり合った?」
 ライデンの頭の先から尾までをぐるりと眺めて、シンクの瞳がギラリと光る。
 たとえシンクでなくとも、所々に傷を負い血を滲ませたライデンの姿を見れば、誰でもただ事ではないと直感的に悟った事だろう。
「え……っと」
 一瞬、ごまかそうかと逡巡する。
 さすがに『転びました』で済ませようものなら怪しまれるだろうが、戦闘能力に秀でたポケモンが多く生息するこの島の事である。手ごわい相手に出くわしたと伝えておけば、余計に勘繰らせる事もないだろう。
 己が師といえど、シンクの実力を以ってしてもあの化け物――白いポケモンに敵うのか分からない。想像を超えたその力が夢ではなかったかという淡い希望も、身に刻まれた傷跡がそれは現実だという、何よりの証拠として残っている。
 そもそもシンクが特訓の場にこの島を選んだ理由の中には、噂になっていた白い怪物ポケモンの存在があったに違いない。より強い敵との勝負を求めるその危険な執着に、今回ばかりは素直に賛同する訳には行かなかった。
「そ、それが体が普通の倍ぐらいありそうなカメックスに出会ってしまって、善戦したんですけど一方的に――」
 嘘で取り繕えばいいと思った。計算出来ない戦いはするべきではない、そう思った。

 しかし次の瞬間、そんな算段は脆くも崩壊する。

「下がれッ!」
「ッ!?」
 一瞬の出来事に、ライデンは声を上げる事も出来なかった。
 突然叫ぶなり、木の上から突進してきたシンクに身体を抱えられ、その場から引き離される。
 それよりもわずかに遅れて、今ライデンが座り込んでいた地面に黒い球体が降り注いだ。
「ひっ……!?」
 思わず息を呑む。シンクの判断が一瞬でも遅ければ、ライデンは黒球の雨に巻き込まれていただろう。
「遠慮のない奴も居るものだ」
「あいつ、あいつ……ッ!」
 シンクの小脇に抱えられたライデンが姿勢のままに見上げた空には、今地面を穿った物と同じ黒球が無数に滞空していた。そしてそれを追うようにして木々の間から上空へと姿を現したのは、紛れもなく、先刻彼を襲ったあの『化け物』。
 ライデンの気配を察知し、追ってきたのだろう。同じ森の中なら距離もそう離れてはいまい。
「なるほど、奴だな?」
「は、はい。でも――」
 短いやり取りで、シンクは言葉の数以上の意思の疎通を図る。
 もっとも、図ったつもりになっているのはシンクだけで、周囲はまったくその意図に気付いていないというのが大抵の場合だ。しかしライデンには、シンクの考えている事がおおよそ察しが着いた。
 戦うつもりなのだ。あの化け物と。
「ついに巡り合えたか――白き悪魔よ!」
 その瞳が証明していた。シンクの心が、かつてない程の興奮の中にある事を。

「ぬんッ!」
 シンクはその手の中から収束した真空の刃を発生させると、振り向き様、今度こそは直撃するというコースの黒球を、力任せにまとめて叩き切った。
「せッ……!!」
 続けて第二撃。突然の反撃に一瞬怯んだ所に、同様の攻撃を叩き込む。
 だがそれは、『化け物』が身体の前面に発生させた防御壁によって弾かれてしまった。しかしシンクにとってはこれも計算の内だ。わずかに出来たその隙を狙って、ライデンの身体を素早く茂みの中へと運び込む。
「貴様はそこで見ていろ」
 そう一言だけ告げ、再び敵の姿を追って木々の間から視線を廻らせるその背中に、
「先輩!」
 止めても止まらない事は分かっていた。しかし叫ばざるを得なかった。
「あいつと戦うんですか!? あいつは広場でも噂になってる白いポケモンかも知れなくて――」
「……。それが?」
「あいつ、得体が知れなくて……先輩に教えてもらった技でも全然歯が立たなくて、その」
 先輩が死んでしまうんじゃないかと、
「ふっ」
 くぐもったその声に、驚いて顔を上げる。珍しい、シンクの笑顔がそこにあった。
「いつも言っているはずだ。敵に対峙したら最後、先に気を弱く持った方が負けると」
「で、でも! そんな強がりでどうにかなる相手じゃ……!」
「強がり?」
 笑顔が一転、じろりしたとシンクの視線がライデンに刺さる。
「死ぬのは怖いんです……先輩は、怖くないんですか!? 得体の知れない相手と戦う事が!?」
「貴様らが日々の訓練を怠っていないのは何故だ? 敵を打ち倒すためか? 小手先の技術を覚え、敵から身を隠すためか?――答えろライデン。どうなのだ」
「それは」
「違うだろう。自分の力を知るためだ。そしてそれを信じる事が出来るようになるためだ」
 シンクは空を、『化け物』がこちらを見下ろしているであろうその空を見上げ、
「我にとって、奴との戦いはその通過点に過ぎない。より強き者との、より極限の戦いに身を置く事で、より力の限界に近付く事が出来る。それを知るその時まで、我は戦いを止めない」
 彼は死にたがりなのではないかと、ライデンは時折思う。
 より強き者との闘争。それは時に、自身の命をも危険に晒す。しかし彼はそれを恐れる事無く、瞳を爛々と輝かせて飛び出していくのだ。死が怖い生き物などいないと思いたいのだが、シンクの前ではその自信がなくなってしまう。
 これを死にたがりと言わずして何と言えばいいのか。
「では行く。何度も言うが、貴様はここにいろ。手出しは無用だ」
「先輩!」
「なに、心配は要らない。我は――負けぬ!」
 裂帛の気合と共に、シンクは地面を蹴る。熱を帯び、まさしく真紅の弾丸となって、シンクは敵へと跳躍した。

 辺境の空で、死にたがりの戦いが始まろうとしていた。


[ Prev ≪ Home ≫ Next ]

2style.net