生命の紅炎




 波に揺られるような心地良さはいつしか消えていた。
 身体に伝わってくる規則的なエンジンの振動と、ブラインドの隙間から差し込んだ日光の眩しさがまぶたを刺激し、彼を夢心地の浮遊感から、覚醒へと徐々に導いていく。
「んん……」
 彼――コウヤは小さく伸びをしながら上体を起こした。
 所々の骨がぽきぽきと音を立てる。椅子に座りながら眠ると、どうしても身体が硬くなりがちだ。
 船旅にもかかわらず、寝覚めは悪くなかった。『高速船アクア号』の面目躍如といった所か。海流が穏やかな航路を、間違いなく選択している事も快適さの要因のひとつ。
 アクア号は今は進行を止め、港へ停泊していた。カントー地方のクチバシティから、ジョウト地方はアサギシティへの、一晩の船旅。途中の順路で寄航する予定は無いので、船の停止はすなわち、無事にアサギシティへ到着した事を表している。
「きゅう……ああっ……」
 あくびを漏らす、しかし人のそれではない鳴き声が聞こえた。
 視線をやると、一匹の獣がコウヤの太ももを枕代わりにして、今だ夢の中という様子で寝こけていた。
 子犬ポケモン・ガーディ。彼の相棒だ。
「アルト、着いたみたいだぞ」
 頬を突ついてやると、アルトと呼ばれたガーディはいかにも心地の悪そうな顔で寝返りを打つ。何とも人間臭いのは、指折り数えて五年近い人との付き合いの賜物だ。
「まったく……」
 無理に起こす気にもなれず、コウヤはガーディの肢体を静かに隣の席へと移す。
 荷物を取ろうとして後ろを振り向くと、船員と思しき男性とばったり目が合った。すぐに目線を逸らして影に引っ込んでしまうが、どうにも、こちらの様子を伺っていたようだった。
 嫌な予感がよぎる。
「げっ」
 周囲の席を見回すと、いわんや、彼以外に客室に留まっている乗客の姿はゼロだった。
 慌てて立ち上がり、荷物を引っ張り出す。
 どれだけ寝ていたのだろう、このまま油を売っていれば、船員から邪魔者扱いされて追い出されかねなかった。幸せそうに眠るアルトに今度は憎々しい視線を落とし、ままならずに片を飛び出した。

「きゅうぅ……」
 船門から出ると、生温い風に乗った濃い潮の香りが頬を撫でた。
 アルトが腕の中で呻くように情けない声を上げ、半眼で周りを見回している。空調の効いていた船内から外に出て気温が一気に変わり、ようやく目が覚めたようだ。
 足早に桟橋を歩いていても、誰かとすれ違うたび、なにか不思議な物を見る目で見られていた。一番最後に船を降り、寝ぼけ眼のポケモンを小脇に抱えた格好では当然だろうが。
「君で最後だな。長旅、ご苦労さん」
 と、チケット確認の船員に話しかけられた。
 地味な作業の割には筋骨隆々、日焼けした小麦色の肌から真っ白な歯を覗かせ、屈託の無い笑顔を見せる船員は手渡したチケットをちぎりながら、
「これからトレーナー修行かい?」
 特に逡巡するでもなく、訊ねた。
「あ、いえ……」
 コウヤは視線を一度左右させると、
「これから、帰省なんです」
 どこか居心地悪げに、そう答えた。
「え?」
 船員は片眉を上げ、通気性と着やすさだけを重視した、利便性一辺倒のコウヤの服装をつま先から頭の上までまじまじと見つめた。最後に死んだ魚のような表情で自分を見上げるコウヤの瞳を一瞥し、
「……あー、悪い悪い。随分身軽なもんだからさァ」
 わっはっは、と軽快に笑い飛ばした。
 旅の証にと、チケットの切れ端が返却され「しっかり親孝行してこいよ」と発破を掛けられる。豪快な船乗りの気性を分かりやすく体現したような人物像だったが、コウヤは言葉にならない生返事をする事しか出来なかった。
 胸の所が、ちりちり焼けるように重かった。

 コウヤは三年前、ハイスクールの卒業を機に、一流のポケモントレーナーになる事を夢見て故郷を旅立った。定職に就く事を望んでいた両親からの反対を押し切っての出発を応援してくれたのは、当時家を離れていた姉と、祖父と祖母だけだった。
 旅立って一年半ほど、コウヤは各地に点在するポケモンジムを回りながらトレーナーとしての修行を続けた。いつしか旅の舞台はジョウト地方からカントー地方へと移ったが、結果は思うように着いてこないどころか、ジムリーダーレベルのトレーナーとの勝負では明確な力量差を実感する事も少なくなかった。
 その後、途中立ち寄ったグレン島のジムでも同様に敗れたコウヤは、ジムリーダーのカツラの炎ポケモンの扱いに憧れ、弟子入り志願をする。同じく炎タイプの相棒アルトをもっと強く育てたいという思いからの決断だった。
 カツラはコウヤの申し出を快く受け入れてくれたが、しばらくはジムの雑用に駆け回る毎日だった。ジムに所属して間もないコウヤが対外試合に駆り出されないのは当然で、雑用の合間に先輩トレーナーに稽古をつけてもらう日々が続いた。
 しかし一年もするとその努力は報われ、コウヤはジムトレーナーとして、バッチを求めて挑戦してくる一般トレーナーの相手をする役割を与えるに至った。周囲にも祝福され、充した生活がそこにはあった。


 船着場は悲しいほどに閑散としていた。
 夏も半ばをすぎてしばらくが経ったこの時期、旅行客は数を減らし、帰省から元の生活へと戻る人間が船の席を埋める事が多くなる。そういう意味では、船員の見解は決し 的を外した物ではなかった。
 だがどうしてか、その何気ない一言がコウヤの心を苛立たせていた。
 時期を外れて故郷への帰省する事など、世間的には別段おかしな事ではないはずだった。しかしこうして一人でベンチに座っていると、自分の姿が酷く浮いた存在に思えて仕方がなかった。正直言って、気分は憂鬱そのものだった。
「……何でこんなトコにいるんだろ、俺」
 ふと、アルトが傍にいない事に気が付いた。
 慌てて周囲を見渡す。見れば、船着場付きのバス停に溜まったハイスクール通いと思しき女子グループに、にやけた顔を集団で撫で回されていた。キャッキャッと言う黄色い声音がこちらまで届いてくる。
 アルトとは、旅に出るよりも前からの付き合いだ。偶然家の中に迷い込んできた子ガーディを餌付けているうちに懐かれてしまった。義理深い所があり、コウヤが旅に出る事を打ち明けた時、一緒に行く事を真っ先に約束してくれたのもアルトだった。
 旅の途中、なかなかバトルに勝てなかった時期にも、アルトはずっと傍にいてくれた。こうして鬱屈した心情でいる自分の横で、いつもと変わらずあっけらかんとしているアルトの姿は羨ましくもあり、またまたありがたくもある。
 それだけに、積み重ねた日々が報われないでいる現状が申し訳無かった。
「あんな事がなければ、今頃は……」


 それは、ジムトレーナーに昇格しての勤務が明日と迫った、半年前の夜の事だった。
 グレンジムが存在するグレン島の中央に存在する活火山・グレン山が、突如として噴火したのだ。
 被害は甚大で、噴火口は山すそまで広がり、発生した溶岩流は平野部の集落を蹂躙した。
 グレンジムはグレン山の中腹に位置していたため、噴火に際して発生した溶岩流に真っ先に飲み込まれ、マグマの下へと埋まってしまった。中腹には現在でも火山灰が数メートル規模で降り積もっており、今の所、復旧の目処は立っていない。島内への調査隊の出入りは始まっているものの、島全体に出された避難勧告は解除されていないのが現状だ。
 コウヤを含めたジムの面々には、当然ながら、カツラから一時解散の宣言がなされた。ある者は復興の時を信じて更なる修行の旅を始め、ある者は他に働けるジムを探すなど、それぞれ別々の道を進む事となった。
『たとえ時間が掛かっても、必ずグレンジムは復活させる』
 そう言い残し、カツラもまた、コウヤたちジムトレーナーの前から姿を消した。
 それからの半年、コウヤは最悪だった。自暴自棄になっていた彼は、旅の途中に知り合った友人の元を転々とし、しかし修行するでもなく、何もせずに時間だけを浪費していた。
 しかし夢を諦めたかといえばそうでもなく、見かねた両親が彼の為に会社の籍を作ってやると言ってきた時も、仕事に就いてトレーナーの道が立たれるのを嫌って断ってしまった。
 そんな時に、丁度実家に帰っていた姉が家の畑仕事を手伝えと言ってきだ。普段畑仕事をしている祖父が、腰を痛めて手が足りなくなったという理由。迷ったが、根無し草の生活よりはマシだと帰省を決めたのがつい先週の事だ。
 タイヤがアスファルトを擦る音がした。
「――あ」
 コウヤはかすかに声を上げる。軽トラックだった。十ウン年は使われているであろうオンボロのそれは、ターミナルへとえっちらおっちら乗り付けると、その両側の扉をバタリと開いた。
 中から出てきたのは、長身の女性だ。
「いよーう」
 片手を挙げて、女性は自然な笑顔をこちらに向けた。見覚えのある顔――当然だろう、何を隠そう実の姉である。
 タンクトップ姿に、薄く日焼けした健康的な肌。夏を太陽の下で過ごしてきました、と書いてあるかのような風体は、女性の外出する格好にしては鷹揚な印象を与える。しかし、颯爽と軽トラで現れるその姿はいかにも彼女らしいと、コウヤはなんともなしに思った。
 荷物片手に立ち上がった弟に、姉――ミツキは車のキーを指先でくるくると回しながら歩み寄る。一般成人男性の平均身長よりも少しあるしなやかな身体は、見る者が見れば好意の眼差しを送ったかもしれない。
「シケた面してるねぇ」
「姉貴は相変わらずで」
 姉と弟、久々の再会であった。
 ミツキはコウヤが旅に出る一年ほど前に、カントー地方はタマムシシティの名門、タマムシ大学へと進学した。
 顔を合わせるのはコウヤが旅の途中にタマムシに立ち寄った時以来になる。現在は大学を休学して実家の家事をこなしながら独学で研究を続けているそうで、しかし昔から勉学に興味の無かったコウヤは、彼女が大学で何を勉強していたのかサッパリ知らないでいた。
「あんたさァ」
 車のキーがコウヤの眉間を指し示す。む、と身構える弟に、
「アタシの事、お姉ちゃんって呼んでなかったっけ」
「はい?」
 そこかよ、とコウヤは心の中でツッコミを入れた。
「……。久しぶりの再会の、一言目がそれか」
「それはこっちのセリフです。ビックリするなぁもう」
 とてもそうは聞こえない口調で、姉は言う。コウヤは荷物を荷台に投げ入れながら言い返す言葉を探し、すぐにその努力を放棄した。
「なんでもいいだろ」
「ま、何でもいいけどね?」
 何と言うか、ミツキはこういう人物だ。
 しばらくして、アルトが戻ってきた。女子グループの名残惜しそうな視線を一身に浴びているというのに、今やミツキに撫でられてご満悦である。なんとも現金だ。
「……ん?」
 ふと吸い込んだ空気に覚えのある香りが混じっていた気がして、コウヤは首を傾げた。む、と眉根が寄る。見咎めた姉にどうしたのと問われて、
「姉ちゃん、煙草始めた?」
 ミツキは一瞬だけ双眸を見開き、
「分かる?」
「臭いがしたから……って、本当に吸ってるのか?」
「いや、違う違うあたしじゃない。吸ってるのはお爺ちゃん。あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてない。一体いつの間に?」
 ミツキは後ろで括り上げた髪をぽりぽりと掻くと、
「ま、詳しい事は車の中で話しましょう。帰るまで時間はたっぷりあるし」
 立ち話もなんだし、と続けるミツキに、コウヤはひとまず従う事にした。
 煙草。あの祖父が。
 それは彼にとって意外な事実だった。自分が知る限り、家族の中で健康に一番気を遣っていたのは彼だったように思っていたのだが。
「あ、そうそう」
 つと考え込んでいたコウヤに、ミツキが思い出したように語りかける。
 にたり。とその薄い朱唇が吊り上がるのを見て、コウヤは何となくその次の言葉が予想できたような気がした。
「『姉ちゃん』か。ま、間を取って丁度良いんじゃない?」
 あからさまに溜め息を付いてみせる弟に、ミツキは悪戯っぽく微笑んだ。


   ◆  ◆  ◆


 二人を乗せた軽トラックは、左右を棚田に挟まれた坂道を黙々と走っていた。
 舗装されていても、曲線の多い山麓の道はあまり走行環境が良いとは言えない。一歩間違えれば気分が悪くしそうだ。
 人気の無い田畑にはヤンヤンマが群れをなして飛び交い、小鳥ポケモンたちが小さな虫を求めて稲穂の間から顔を覗かせたりもしている。また、麦藁帽に白いシャツという、いかにもな格好をした少年が、虫取り網片手にポケモンと連れ立って歩いていたりもする。穏やかな田舎の風景。
 中でも目に付いたのは、山一つ土地として持っているのではないかと思えるほどに広大な放牧地を抱えた牧場だ。
 『モーモー牧場』と言えば、全国的に名の知れたミルクの銘柄『モーモーミルク』の産地として名が知られている。ポケモンでも気にせず飲める栄養価抜群のミルクは、国内のポケモン産業界において大きな地位を確立していると言っても過言ではない。こうした自然に囲まれた土地柄が、よりよい品質を産み出すのだろう。
 それ以外にも、ぽつぽつと点在する民家は、どれもが独自に田んぼを持ち合わせていた。港町として発達したアサギシティから山一つを越えただけで、景色は随分と表情を変える。
「平和なもんだ」
 コウヤがぽつりと呟いた。
「あたしもこの雰囲気はすごく好きね。何たって空気は綺麗だし、食べ物は美味しいし」
「食い気ばっかりかよ」
「あら。食事は心の栄養補給って言うでしょ?」
「そのうち脳みそまで脂肪になるぞ」
 面白い事言うねぇ、とミツキは笑った。
 それを横目に見ながら、コウヤは小さく溜め息を付いた。
 そういえば、長い間笑っていないな、と思う。こんな事を口に出そうものならミツキに散々からかわれてしまうだろうが、この半年の影響がこんな所まで出ているのか、と思う。
 動揺を悟られまいと、無理矢理話題を変えた。
「爺ちゃんは畑仕事、どれぐらい出来るんだ?」
「なに? いきなりサボる気?」
 違うよ、と慌てて否定する。
「あんたがいない分には、まぁ好きにさせてたけどね」
 ミツキは小さく肩をすくめてみせた。
「困った事に、あの人、腰をやった癖に心の中じゃまだまだ現役バリバリのつもりなのよねぇ。まぁ心中察する所もあるけど……でも、働き手が新しく届いた以上は、そうも行かないし」
「煙草吸わせてるのは?」
「ん?」
「好き勝手させない、って言う割には煙草は吸わせてるじゃないか」
 その言葉に、ミツキはハンドルを操作する手の動きを止め、コウヤを一瞥した。ほんの一瞬、コウヤも気が付かないぐらいのわずかな時間の事だった。
「……お婆ちゃんの事もあるかもしれないしでしょ」
「え……?」
 コウヤの表情に怪訝な色が浮かぶ。
 彼らの祖母は、一年ほど前にこの世を去っていた。当時グレンジムで修行に明け暮れていたコウヤは、その訃報に衝撃こそ受けたものの、実家に帰ろうという気にはすぐにはなれなかった。何しろ、その時のコウヤはジムトレーナーに昇格するかどうかの瀬戸際で、小さな評価の変化すらも気になる時期だった。実家に帰れば、昇格が危うくなるのでは、という危機感があったのだ。
 結局、コウヤは葬儀を欠席する事を選んだ。家族も納得してくれた上での決断だったものの、その事に負い目が無いかといえば嘘になる。
「お爺ちゃんは、お婆ちゃんが亡くなった頃から煙草を吸い出したのよ」
 ミツキの俯き気味の相貌には、沈痛な色が見え隠れしていた。
 普段のあっけらかんとした態度からは想像もつかない。コウヤは姉はこんな顔もするのか、となんともなしに思った。
「あんたは知らないだろうけど、あんたが生まれるほんの少し前までは、お爺ちゃん煙草吸ってたの。でもあんたが生まれるってんで一念発起して、頑張って禁煙したのよ」
「……。」
「まぁそんな訳もあって、煙草(アレ)の事はあんまり強く言えないのよね」
 苦笑が浮かぶ。
「まぁあれで結構フェミニンな所があるし、若い頃の思い出を偲んでるのかもね」
 いつものポンポンと飛び出すような口調はまだ鳴りを潜めていた。確かめるように、一句一句を大切に伝えるように言葉を紡いでいる。
 コウヤは黙ったまま、肺一杯に深呼吸した。運転席全体に染み付いた強いシガーの香りが鼻腔をくすぐる。旅先やジムの先輩の吸っていた臭いで慣れてはいるものの、この空間に満ちている香りは、どこか寂しさを湛えているようにも感じられた。
「あまり感心しないけどな」
「まぁそう言わないでよ。お爺ちゃん、あんたが帰ってくるの楽しみにしてたから、ジムでの事とか旅先での事とか、色々話してあげてよね? きっと喜ぶと思うしさ」
 チクリ、と胸に針が刺さったような感覚に、コウヤは眉根を寄せる。
 よしてくれ、と小さく呟いて唇を噛み締めた。
「面白おかしく喋れる事じゃないって、分かるだろ」
 グレン島での生活は、コウヤにとってのすべてであった。その残影に取り憑かれたままこの半年を過ごしてきたのだ。望まれても、人に話して聞かせたいとは思えなかった。
「俺は爺ちゃんを慰めに帰ってきたつもりはない」
「……。なにそれ。あんたって案外ケチ?」
「俺は爺ちゃんとは違う。過去に縋って生きてる爺ちゃんとは違うんだ」
「はぁ? あ、あんたねぇ」
 吐き捨てるようなコウヤの言い草に、ミツキがいよいよ肩を怒らせた。知るものか、と姉の視線から目を逸らし、コウヤは遠方の山肌を睨み付ける。

 そして――息を呑んだ。

 一瞬、驚愕の表情を浮かべたまま、顔を窓ガラスに張り付けた。
 あっという間の出来事だった。何が起こったのか、コウヤにはその瞬間まで理解する事すら出来ていなかった。いや、何が起こったのかは、わかる。ただ、あまりにも唐突過ぎて――と言うよりも不自然過ぎて、正確な認識が追い付いてこない。
 ――真っ赤に熱を帯びた、視線。
 少なくともその時のコウヤに、それ以外の形容は考えられなかった。
「ちょっと! いきなりなに?」
 ミツキの声がやけに遠く聞こえていた。応えず、コウヤはなおも齧りつくようにして、窓ガラス越しに山肌を凝視していた。
(熱い)
 いつしか、首筋に汗がびっしりと湧き出ていた。それらを認識すると、今度は背筋を微細な震えが襲った。悪寒のような、それでいて心地良いすら携えたおぞ気。二つの感覚が交じり合い、上手く制御出来なかった。
 と、突然車が乱暴な動きで路肩に停車された。その反動で体が大きく傾ぎ、コウヤは側頭部を車のフロントガラスにしたたかに打ち付けた。
「ってぇ――」
 鈍い痛みにようやく我に返る。
「一体、なに? 珍しいポケモンでもいたの?」
「え。――あ、いや」
 唐突に話を振られて口ごもった。
 心臓がばくばくと鳴っていた。脳裏に焼き付いて離れないのは、一瞬で駆け抜けていった、まるで熱風のような強烈なイメージの残滓。
「……。なんでもない」
 曖昧に濁す。というよりも、答えようがなかったと言うのが正直な所だった。すでに形骸化したそれは、ペンキをぶちまけたような、ただ一色のイメージと化していた。
 赤。見続けると、脳がそれ一色に染まってしまうような感覚だった。
「――まぁいいや。で、あんた。さっきの言い草は何なの?」
 続けざまにミツキが問い詰めてきて、コウヤは一瞬彼女が何を怒っているのか分からなかった。塗り潰されたように、それまでの会話がすぐに出てこない。
 ようやっと、自分が何を口にしたのかを思い出して、経緯こそあれ、何故そこまで気が立っていたのかと自分でもよく分からなくなる。
「いや……ごめん」
「あたしに謝られても、何の意味もない事ぐらい分かるでしょ」
「いや、何と言うかさっきのは」
「問答無用」
 すっぱりと切り捨てて、ミツキはアクセルを全開まで踏み込んだ。
 急発進した車の慣性に、今度は後頭部をシートに叩き付けられる。続いて、トラックが進路を変えて未舗装のあぜ道に入っていくのに目を疑った。自宅まであと少しだというのに、ここに来て明らかに道を外れている。
「ど、どこ行くんだ!?」
「畑よ」
 低い声で応えて、ミツキは鋭くハンドルを切る。
「今、お爺ちゃんは畑にいるはず。あんた、家に戻る前にちょっと働いてきなさい」
「は、はぁ!?」
 コウヤが目を剥いた次の瞬間、タイヤが小ぶりの石に乗り上げて大きく浮き上がった。その拍子に思い切り舌を噛み付ける。開け放たれた窓から辺りに響き渡った野太い悲鳴に、水場に佇んでいた鳥ポケモン達が一斉に飛び去って行った。


   ◆  ◆  ◆


  コウヤの実家が所有する畑は、山肌を切り拓いて広げられた土地を利用して作られている。ここまで見てきた棚田地帯もそうだが、こうした土地柄、山の斜面が作り出す高低差を上手く使って開墾する必要がある。
「じゃあ、先に帰ってるから。夕飯までには帰ってくるように。アルトもね」
「……。了解」
「わうっ!」
 太陽が南中からやや傾きかけた頃、トラックは再び停車した。
 畑へと続く道の途中だったが、コウヤは半ば強引に車を降ろされた。土ぼこりを立ててあっという間に走り去る軽トラックの後ろ姿を見送り、舗装されていない、雑草まみれの砂利道をアルトと連れ立って歩く。あっという間に全身から汗が噴き出して、タオルのひとつでも持ってくるのだったと早くも後悔の念がちらついた。
「わうっ! わうっ!」
 一方アルトは元気一杯で、鞠玉のようにあちこちを駆け回っていた。
 道端に咲いた名も知らない花に鼻っ面を突っ込んで香りを嗅いでいたかと思えば、今度は上空を飛行する鳥ポケモンを追いかけて、危うく用水路に飛び込みかけたりする。やはり炎タイプの特性なのか、太陽の下を駆け回っている方が性に合っているのかもしれない。
「遠くまで行くんじゃないぞ」
「わうっ!」
 いつも返事だけはいい。

 突き抜けるような蒼穹の下で、土の上に座り込み、黙々と作業にふける男性がいた。真っ黒に日焼けした肌が、白地のシャツで一層に際立って見えた。
 チチッ チチッ
 傍の草むらからポッポが二、三羽連れ立って飛び去っていく。ゆっくりと皺の刻まれた顔を上げ、男性は麦藁帽子のつばをつい、と摘み上げる。
「お」
 声が漏れた。視線の先には、ガーディを傍に連れて坂道を登ってくる青年の姿があった。
「おぉい、コウヤ」
 ゆっくりと、しかしどこかぎこちなく立ち上がりると、男性――コウヤの祖父テツヤは右手を挙げて孫へと親しげに呼びかけた。
 一方の青年――コウヤも気付いていたようで、すぐにひらひらと手を振り返される。
 アルトが一目散に駆け寄ってきて、大きな声で鳴きながらテツヤの周りをぐるぐると回った。
「よぉし、よし」
 無骨な手が、ガーディの柔らかな体毛を撫でる。あちこちにこびり付けている土や葉っぱを取り払ってやっていると、ゆっくりと傍に歩み寄ったコウヤが横に並んだ。
「久しぶり」
「おう、よく帰ったな」
 彼らの目の前には、夏から初秋にかけて収穫される野菜が一面に栽培されていた。かぼちゃを筆頭に、ナスやじゃがいもが脇を占め、トマトの苗木の向こうには、ポケモンが好む木の実の類もいくつかその実を付けていた。
「今年は盛況?」
「まぁな。なんだって今年は天気がいい。むしろ一気に熟れちまって、急いで食わんと悪くなっちまうのが困り種よ」
 白い歯を剥き出しにして、テツヤは愉快そうに笑った。
「最近は野生ポケモンも要領を得てきててよ、野菜の出来上がりを狙って山から下りてきやがる。この間なんか、夕方見回りにきたらヘルガーとデルビルの親子が二、三匹うろついててよ。喝入れてやったら一目散に逃げてったがな」
 畑を挟んで向こう側、雑木林へと至る斜面には、鉄線を巻きつけた物々しい柵がこしらえてあった。ただテツヤの表情はどこか楽しそうでもあり、そういった野生ポケモンとのやりとりすらも農作の一部として考えている印象すらある。
 まだ筋肉も衰え切っていないしなやかな身体は、七十どころか八十に至ろうかという年齢を一切感じさせない。腰の不調さえなければ、一般的な成人男性並の力はありそうだ。
「元気そうで何よりだけど、あんまり無理しないでくれよ。姉ちゃんだって心配してるし」
 姉を引き合いに出せば少しは素直に聞くかと思えたが、
「――あァん?」
 底鳴りのするテツヤの口調に、コウヤは、お、という表情になった。
 この老人の凄みのある声色には、大抵の人間は初見で一度ビビる。皺の刻み込まれた顔つきは、初めて見た相手には好々爺然とした雰囲気を感じさせても、一度口を開けばその印象はあっという間にひっくり返る。
「ミツキの奴に何言われたか知らないが、ワシはまだまだ、現役でやっとるわい」
「そりゃ結構」
 つっけんどんな祖父の言葉にもコウヤは動じず、
「明日からは監督業でお願いしますね」
「やかましい。言っておくが、ワシに出来なくてお前が出来るような仕事は、せいぜい荷物運びみたいな力仕事ぐらいだぞ。それ以外の事はまだまだ任せられん」
 肉親だからこそ、コウヤもテツヤも、お互いの口調にまったく遠慮が無い。
「……。遠路はるばる帰ってきた孫を、いきなり役立たず扱いかよ」
 むっとした表情の孫を、テツヤは鼻で笑った。
「何も知らんガキが、一丁前に言うからだ。……こっち来い」
 そう言うと、テツヤは雑木林に沿う形で建てられた、柵付きの小屋へと歩いていく。
 コウヤの胸の高さほどしかない小屋の中には敷き詰められた藁の束と共に、手で抱えるほどの大きさの甲羅のような物体が二つ、身じろぎもせずに鎮座していた。甲羅には小さな突起状の穴がいくつも開いており、ごつごつとした印象を与える。
「ツボツボ……」
 コウヤの呟きに反応したのか、二つの殻のような物体――つがいのツボツボはその四肢と、頭部を穴の中からにょっきりと覗かせた。もぞもぞとその身体を這わせて、小屋の中から歩み出てくる。
 甲羅の上部に開いた二、三の穴にはゴム製の栓が付けられていた。ツボツボは非好戦的な性格で、体内に木の実を蓄えて長期間岩の下などで暮らす習性がある。また、ツボツボの体液と体内で発酵させた木の実とが混ぜ合わさる事で、非常に美味なジュースが生成されるのだ。
 このツボツボたちは何世代にも渡って飼育されており、木の実ジュースを提供してくれている。テツヤはそのジュースを好んで飲むほか、出荷してそこそこの収益を得ているらしい。コウヤも何度か試し飲みした事があるが、木の実の種類によってまちまちとは言え、悪くない味だったと記憶している。
「わうっ、わうっ!」
 柵から身を乗り出して、アルトが尻尾を千切れんばかりに振り回していた。漂い始めたジュースの甘い香りに目を輝かせ、しきりに鼻を動かしている。
「さぁて、調子はどうだ?」
「るるるぅ」
 テツヤは柵の中へと入ると、ツボツボに取り付けた栓を抜き取って中を覗き見た。
「よし、もう取り出せそうだな」
 ジュースの原液となる液体の濃厚な香りに小さく頷いて、
「まぁやってみろ。要領は分かってるな」
 小屋の壁に掛けられた、スポイトのお化けのような吸引具を投げ渡した。
「……。これぐらいは」
 コウヤが傍にしゃがみ込むと、ツボツボはその短い手足を懸命に動かして彼からパタパタと距離を取ってしまう。後を追って吸引具を挿入しようとした途端、危うく体液を吹きかけられそうになった。
 がっはっは、とテツヤが声を上げて笑う。
「見よう見まねじゃ、その程度か。貸してみな」
 そう言ってコウヤの手から吸引具を奪い取ると、形こそコウヤと同じようではあったが、しかし確実に作業を進めていく。
「お前は気負いすぎなんだよ。作業しよう、って雰囲気がありすぎる。ツボツボは木の実ジュースを作るが、別にワシらの為に作ってるわけじゃあない。あくまでも便乗していただいてるだけだ。そんな鬼気迫った顔で近付かれたら、そりゃ驚いちまうだろう」
 最後にとんとん、と頭を撫でてやると、ツボツボはのんびりとした様子で小屋の中へと戻っていった。
「……なるほど」
「手順だけ知ってても、上手く行くとは限らんのさ。それが分かるまではワシも一緒に畑に出る。……ほら、もう一匹残ってるぞ」
 つがいのツボツボのうち、一匹を顎で示し、テツヤはコウヤに吸引具を手渡した。

 コウヤが四苦八苦の末に作業を終えてツボツボを小屋に戻した頃には、ポケットから取り出された『それ』からは白い煙が帯を作っていた。
 思わず声が出る。
「あ」
「ん?」
 ぱちり、と瞬きを一つして、テツヤは煙の息を口と鼻から一斉に噴き出させた。おそらく無意識の内に火を点けていたのだろう。孫の渋い表情から居心地悪そうに視線を逸らし、咥えた煙草を見つめる。
「ミツキからも聞いてんだろう。驚く事でもあるまい」
「別に」
 コウヤは批判の言葉も無ければ、嫌悪感を隠そうともしなかった。
「煙草は嫌いか?」
「向こう(グレンジム)じゃ、年配の人は皆吸ってた。臭いには慣れてる」
「そうか。まぁ、勘弁してくれな」
 そう言って濁った息を吐くテツヤから、目を逸らした。
 足元から伸びる影が、次第にその長さを増していた。山の稜線の向こう、傾き始めた太陽の下で、空が少しずつ赤く染まり始めている。茜色の背景に黒い樹木のシルエットがくっきりと浮かび上がっていた。
 ――赤。
 そういえば、トラックの窓から見えた『あの』視線は何だったのだろうか。
(野生ポケモン……が、あんな強烈な『にらみつける』をするのか)
 ポケモンの中には、人間の神経を威圧する程に強烈な気迫を見せる種族もいると聞く。しかしそれら『プレッシャー』を放つようなポケモンは、所謂『伝説のポケモン』と呼ばれる、個体数の少ない存在に限られるという。
 こんな山奥でそんな存在が、しかも自分を見ていた。理由は? ――分かるはずもない。
「こいつらはな」
 独り言の呟きにも似た声に、コウヤはやおら顔を上げた。
 テツヤは柵に腰を預けて地べたに座り込み、アルトに鼻っ面を突き付けられて困惑気味の表情を見せているツボツボたちを、助けるでもなく、ただ静かに見つめていた。
「ツボツボの寿命は、人間のそれよりもずっと短い。こいつらはワシがこの稼業を始めてから六代目になる」
「……。」
「子供が出来ると、親のツボツボはそう長い事生きずに、死ぬ。まるで次の世代にバトンを渡せて満足したかのようにな。これまでのどの世代もそうだった」
「そう……だったかな」
 コウヤにも覚えがあった。彼がまだ両手の指で歳を数えられる頃の話だ。いつものように祖父と畑に繰り出すと、祖父がツボツボたちの小屋を覗き込むや、凄い形相で何か叫び出した事があった。しっかりしろ、死ぬな、とかそういった類の言葉だったように記憶している。
 その日は祖父は畑仕事をほとんどせずに山の斜面に穴を掘っているばかりで、当時のコウヤはつまらないなぁとしか思わなかった。
 帰り道、祖父の瞼が真っ赤に腫れていたかどうかは――よく覚えていない。
「ツボツボの子供が生まれると、あぁまたそんな時期か、と心が覚悟を決めちまうのか、いざ親が死んでる所を見つけりゃその時は驚いても、しばらくすればまた仕事が始めれたもんさ。子供のツボツボはワシに懐いてくれたしな」
「……なんか、薄情に聞こえるけどな」
 コウヤの非難がましい目つきに、テツヤはにたりと唇の端を吊り上げた。
「ワシよりも先に逝くんだと、分かってるからな」
 新しく煙草に火を点ける。
「しかし、婆さんはそんな覚悟も決まらん内に逝っちまった」
 淡々と――コウヤにはそう聞こえた――呟いて、テツヤは煙を思い切り吸い込んだ。すでに甘さも辛さも感じなくなった香りを舌の上で転がし、すっと喉の奥に通していく。
「婆さんが死んですぐ、腰を痛めた時の話だ。ワシはな、あの時思ったんだ。これは長く生き過ぎた罰なのかも知れん、と」
「罰?」
「婆さんが死んで、そりゃあ寂しかったさ。ツボツボたちには悪いが、付き合ってきた年季が違う。残されちまったんだと分かった時は、どうしようもないぐらいに落ち込んだもんだ」
 そんな時、精神的に参っている所に追い討ちを掛ける様にして腰を痛めたのだ。思うように動かない、常に痛みを帯びる身体に、テツヤは本気で妻の後を追う事も考えたほどだった。
「間が悪かったんだよ、きっと」
 精一杯言葉を選んだコウヤに、テツヤは苦笑いを浮かべた。
「長く生きて、周りの人間の死を知った者はな、今に自分にも同じ事が降りかかるんじゃないかと思えてしまう。先が見えなくなるんじゃな。だから昔の記憶に縋る。縋って、少しでも心を落ち着かせたくなる」
 灰になった煙草の先を、トントン、と落として、再び口に咥える。
「お前と一緒さ」
 テツヤが口を動かすのと同時に、もやもやと煙が立ち昇った。すぐに空気に混じって消えてしまう煙の揺らめきをぼんやりと眺めるテツヤの視線に、コウヤは不意に、強い怒りの感情を覚えた。
「俺がジムでの生活を失った事を言ってるのか?」
 抑えたつもりで、語気が荒れる。
「言った通りの意味さ」
「昔の記憶に縋ってるのは爺ちゃんの方だろ!」
 とうとう叫んでしまった。言ってから、しまった、と思う。口を衝く言葉と覚悟が明らかに剥離していた。反射的に身体を固くするが、テツヤは驚きも笑いも否定もしない。ただじっと地面を見つめ、
「悔しいなら、ぶちまけちまえばいい。思い切り叫んで忘れちまえばいい。苦い思い出ってのはそうやって握りつぶしてしまうのが一番苦労しないで済む」
「俺は、嫌だ」
 比べてもらっては困る、と彼の中の過去の記憶は叫んでいた。あの充実した日々は、煙のように霧散させてしまえるほど安い物ではなかったはずだ。
「ヘっ、若いのに面倒な性格してやがる」
「何……?」
「わうっ」
 腰を浮かしかけたコウヤのズボンの裾を、突然アルトが噛み付いて制止した。
 一瞬怯んで、我に返る。ツボツボたちが自分を怯えた表情で見ているのに気が付いた。
「……ッ」
 苛立ちに歯を噛み締める。依然足を引っ張って離さないアルトを引き剥がし、
「帰ろう」
「仕事は済んだが気は済んでないだろう。いいのか?」
「……。夕飯までには帰ってこいって姉ちゃんが言ってた」
「そうか」
 咄嗟に作った理由に、テツヤは笑うでもなく、静かに呟いた。
 正直、悲しかった。
 昔から祖父の背中ばかり見て育ってきたのだ。仕事人間だった両親は家を空ける事が多く、遊び相手といえば祖父母ばかり。中でも外での遊びを教えてくれる祖父の姿は幼いコウヤにとっては憧れの対象ですらあった。
 枯れている。今の祖父は、見た目以上に心が枯れてしまっている、とコウヤは思った。
「ワシはもう少しゆっくりしていく。晩までには帰る」
 テツヤは飄々と呟いて、寄り添ってくるツボツボたちの頭を優しく撫でた。ツボツボたちが安心しきった表情でテツヤに身を委ねるその光景に、何も言う事も出来ず、コウヤは背を向けた。
「わうっ」
 アルトが追い掛けてきて、どうしたのか、とでも言いたげに鳴く。
「来たくなければ、別に来なくていいぞ」
 コウヤに低い声でそう言われ、おろおろとした視線でテツヤに助けを求める。にっこりと笑ったテツヤが「行ってやりな」と手で示して、ようやく決心がついた。
「わう! わうっ!」
 慌てて主人の後ろを追いかけていく。
「……やれやれ」
 徐々に小さくなっていく孫の後ろ姿を目で追いながら、ふぅっ、と小さく息を付いた。
 自分の足元を転びそうになりながら駆け回っていたガキが、ああして一丁前に口答えをするようになって返ってきた。嫌われちまったかな――と、自嘲気味に思いながら煙草を地面に落とし、ぐりぐりと足の裏でこする。
 一瞬。
「――ん?」
 ふと、誰かに見られていたような気がして、テツヤは顔を上げた。
 ぐるりと見渡して、辺りにはそれらしい者がいない事を確認する。コウヤが戻ってくる事もないだろう。このだだっ広い田舎の片隅にいるのは、自分とツボツボたちだけ。
 その異様さに気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 静か過ぎるのだ。自分の周りには誰もいないどころか、虫ポケモンのさざめく声すらも聞こえてこなかった。異常な静寂が辺りを包んでいた。すべての生き物が、息を潜めて縮こまっているような、そんな感覚。
 同時に、視界の端で何かがゆらりと揺れた気がした。
 この時期、太陽は高度を落とし、日照時間は徐々に短くなる。すでに日は東の空を赤く染め始め、それにシルエットを形作って、正面の雑木林は暗く陰っていた。その林の中、真っ直ぐに伸びた細い針葉樹の合間から、時折チラチラと見え隠れしている物があった。
「おいおい、ありゃあ……」
 思わず声が漏れる。
 その時点で確信は無かった。しかし長年の培ってきた経験とその勘が警鈴を鳴らしていた。
 火を点けたばかりの煙草を咥える事もなく地面に放り出し、乱暴に踏み付ける。体重を掛け、反動を付けて両足を踏ん張って立ち上がった。すんなりいかねぇな、と苦笑気味に眉をしかめる。
「るるぅ」
「安心しな、すぐ戻るさ」
 不安そうなツボツボたちを残し、雑木林に面して作られた防止柵を潜り抜けた。林間を抜けてくるかすかな風に、焦げ付いたような臭いが混じりだしていた。


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