生命の紅炎




 家に帰るなり、物凄い剣幕で怒られた。
「呆れた! あんたには呆れた!」
 コウヤがテツヤと一緒でなかったのを訝り、ミツキは弟が嫌がるのも無視して何があったのか執拗に問い詰めた。コウヤとしてはとても喋る気にはなれなかったのだが、姉の目の据わった形相は妙に迫力があり、結局は押し負ける格好ですべてを吐き出してしまった。
 で、姉の総評がこれである。
「……消化に悪いから、もう止めてくれ」
 コウヤは引っ張り出してきたスナック菓子を摘まみながらげんなりした様子で呟いた。足元で物言いたげな表情を示すアルトにも一枚放ってやる。
「やめねーよ。……認めたくないものね、若さゆえの何とやらは」
「何が言いたいんだよ」
「あんたが大人ぶってて痛いって言ってんの」
 ミツキは、にべもなく言った。
「若いとか大人とか……どっちだよ」
「好きにさせてあげればいいのよ。老い先短いとか、あたしもそんな台詞お爺ちゃんから聞きたくないけどさ。でもお爺ちゃんがそうしたいなら、あたしたちにそれをとやかく言う権利なんて無いの」
「煙草吸ってる事に文句は言わなかったさ」
「違うっての。あんたが気に入らないのはそこじゃなくて、お爺ちゃんが昔を振り返ってばかりいるって所でしょ。同属嫌悪かなんだか知らないけどさ」
「誰が同属だ」
「あんたの事話してんの」
「……。」
 躊躇う事無く言ってのけるミツキに、どうしてかすぐに反論する事が出来なかった。
 同属嫌悪。お前と一緒さ、という祖父の言葉がふと思い浮かぶ。
 なるほど、過去の記憶を引きずっているという味方をすれば、自分と祖父は確かに同じかも知れない。大切な思い出だからこそ、それが忘れられないでいる。
 それは、決して悪い事ではないはずだ。そのはずだった。
「変に老け込んだ気になっちゃってさ。あんた今いくつよ?」
「姉ちゃんには関係ないだろ」
「そう言いたいのはやまやまなんだけどね――!」
 やおら腕を伸ばすと、ミツキはコウヤの襟首を鷲掴みにした。物凄い力に、なすすべもなく姉と視線を付き合わせる。
「あんた、何様のつもり?」
「な、なにが……」
「あんたとお爺ちゃんが喧嘩しようが、あたしはどうでもいいの。知った事じゃない。ただし、それは個人同士に限っての話」
 ミツキの瞳が底光りした。
「これ以上背伸びしても、格好が付かないだけよ?」
 身長では勝っていると言うのに、どうして迫力負けしているのだろう。これまで見てきた中庸な態度とは明らかに違っている。
「お婆ちゃんが亡くなった時にお爺ちゃんがどれだけ悲しんでたか、あんたは分かってない。そりゃそうよね、その時あんたはグレンにいた――その事を責めようってんじゃないわ」
「…………。」
「お爺ちゃんにはお爺ちゃんなりに生きてきた人生がある。あんたよりも何倍もの時間を掛けて培ってきた知識と経験もね。それを、なに? 自分がちょっと苦労したってだけで同じ舞台に立った気になっちゃってさ。もう分かるわよね、あんたとおじいちゃんには決定的な違いがある事」
「そんなの……」
「分かってるの?」
「姉ちゃんだって、そうだろ!」
「そうね、分からないわ。あたしはこの通り独り身だし、あんたに負けないくらいガキンチョよ。だけど私はまだまだ将来が、未来があるって知ってる」
「未来……?」
 スッ、とミツキが身を引いた。腕の力から解放されて、コウヤはよろけながらも体勢を立て直した。身構えながら姉を見やると、いつしかその表情は普段のそれに戻っていた。
「帰ってこないかって誘った時、意外と素直に言う事聞いたからビックリしたの、覚えてるわ。俺の生き方は俺が決める、とか言い出すんじゃないかと思ってたのに」
「……。ここに腰を据えて、ずっと住み続けようなんて思ってない」
「そりゃ結構。……まぁ、別にいいけどね、今のも全部、あたしが勝手に解釈した事だし。スカした事言ってるって思ってもいいよ」
 そう言って、ミツキは台所へと向かっていく。悪態を付くでもなく、コウヤはその背中をただ目で追った。今晩はコウヤの帰省を祝って豪華な夕食にするという事だったが、このままでは美味しく頂けそうにもない。
 と。
 ヴヴヴヴヴヴヴヴ…
 足元で振動する物があった。興味を持ったのか、アルトがつんつんと足の先で突いて様子を伺っている。
 ミツキのポケギアだった。こんな所に落っことしているなんて無用心な、と拾い上げて、
「あ」
 その画面に表示された名前に、一瞬息を呑む。
 テツヤだった。
「……姉ちゃん、爺ちゃんから電話」
「えー?」
 依然振動を止めないポケギア片手に姉を呼び戻す。台所の置くから聞き返す声がしたが、しばらくの沈黙を置いてさらに言葉が続けられた。
「代わりに出といてー」
 いつもと変わらない呑気な声に、野郎、と今度は悪態を付く。
 気まずい事この上なかった。しかし、このまま無視するのもどうかと思う。着信ボタンを押して、耳にスピーカーホンを押し当てた。
「もしもし」
 一言切り出して、コウヤはすぐに異変に気が付いた。
 ガサガサと、何かを擦るような音と共に、祖父の物と思われる荒い息遣いが聞こえてくる。
「もしもし? ――おい、爺ちゃん?」
『コウヤか?』
 問う言葉の後ろに、バキバキという何かが折れるような音が重なる。とてもじゃないが、畑でぼうっとしていて聞こえる音ではない。一体テツヤはどこにいるのか、それをコウヤが尋ねようとしたその瞬間、
『すぐに、――ぐに消防団に――らくしろ!』
「はい?」
 頓狂な声を上げてしまう。
『火事だ! ウチのはた――の裏手の山だ、急げ!』
「は!? 何だって!?」
 思わず聞き返したが、すぐに応答がない。どうやらテツヤ自身が走り回りながら喋っているようだった。
『なん――かは知らんが、こいつら怒って――うぉッ!?』
 一瞬、ガシャガシャと騒々しい音がノイズとなってコウヤの耳に突き刺さり、最後に驚愕に近い声を発したきり、テツヤの声は聞こえなくなった。
「爺ちゃん!? 爺ちゃんどうした!?」
「ちょっと、なに怒鳴ってんのよ」
 何度も電話に呼びかける弟の声を訝ってミツキが台所から顔を覗かせる。
 焦燥を顔一面に浮かべたコウヤと目が合うと、その場にさっと緊張した空気が流れた。ミツキがポケギアを奪い取るのと、コウヤが部屋から駆け出して行くのとではどちらが早かったか。
「消防に連絡! ウチの畑の裏手で火事だ! 爺ちゃんが傍にいる!」
「あんたはどこ行くの!?」
「放っとけないだろ!」
 早口にそう告げて、アルトを見やる。この時ばかりは緊迫した面持ちの相棒と頷きを交わして、コウヤは一時の停滞も挟まずに家を飛び出し、庭先のトラックへと飛び乗った。いきなり眠りを破られたトラックの動力は、暖機抜きの起動にもかかわらず、なんとか噴き上がって動き始める。
 思い切りアクセルを踏み込んだ。
 見かけに似合わない爆発的な加速を産み出し、軽トラックは舗装もまばらな田舎道を爆走する。何人か近隣の住民とすれ違ったが、全員が全員、何が自分の横を通り過ぎたのか一瞬理解できず、ややあってから声も出ずにその後ろ姿を見送った。そして、トラックが向かう先で何が起こっているのかを、すぐに察した。
 夕闇に包まれつつある世界の中で、ある山の一角だけがその中腹に赤い不気味な光を抱え込んでいた。もうもうと湧き上がる煙の束に、幾人かは悲鳴を上げて人を呼びに走った。
「間に合え――!」


   ◆  ◆  ◆


 バチバチ、という騒がしい音がすぐそこまで迫っている。焦げ付いた臭気が鼻の奥にツンと刺さり、ジリジリとした熱気が体中を炙り付けていた。
「るがああああッ!!」
「がうううううッ……!」
 激しい唸り声上げた二体のポケモンが、燃え盛る炎の中で対峙していた。
 ヘルガーと、バクフーン。この近隣に生息している炎ポケモンの中でも強力な力を持つ種族だ。おそらく戦いの目的は縄張り争い。
 自然に満ちていると思われるこの田舎の山の中も、かつてから人間の開発や伐採などで手が加わった事で、その生態系は随分と崩れてきている。畑にヘルガーがやってくるのは、そこに行けば森の中で探すよりも簡単に餌が手に入ると分かっているからだ。
 開発によって餌場が減り、野性ポケモンは数を減らしていると声高に叫ぶ学者がいるが、テツヤはむしろ逆だと思っている。ポケモンはその数をどんどん増やしているのだ。人里に下りてくるのは、そこを餌場として認識しだしたからであり、決して食糧難が原因ではないのだと。
 畑からちらりと見えたのは、この戦いの炎だった。
 そんな炎の真っ只中にあって、テツヤはうずくまったまま動けなくなっていた。
 一瞬の油断、コウヤとの電話に気を取られていた所に、攻撃の余波を受けて吹き飛ばされたのだ。その際に打ち付けた腰周りに走る激痛が、彼の全身を蹂躙していた。べっとりと頬を濡らしているのが、痛みが浮き出させた脂汗なのか、炎に巻かれて、暑さで浮き出た汗なのか、すでに考える余裕すらない。
「ふんッ……」
 痛みを無理矢理押し殺し、手足を這わせて移動を試みる。
 既に立ち上がる事すら難しかった。しかし、このまま炎の中心にいるのだけは拙い。万一にもツボツボたちを連れてこなくて良かったと思う。こんな状態では到底守ってやる事は出来なかっただろう。
 炎は戦いが推移するたびにその範囲を広げる。このまま好き放題させておけば、やがて炎は山の下へと燃え移っていくはずだ。雑木林に隣接したテツヤの畑が一番にその被害を受ける事となる。それまでに消火が間に合うかどうかは微妙に思えた。
「やめねぇか……!」
 搾り出すように声を上げるテツヤの頭の上を、唸りを上げて炎の塊が通過した。咄嗟に頭を伏せたが、一瞬遅れていればハゲ頭などという問題はなかったはずだ。
「ぬぅ……」
 辺りに漂う煙を大量に吸ってしまったのか、意識が朦朧とする。呼吸もままならなくなるほどの煙の量に、煙草とでは全然違う、と妙な実感を持ってテツヤは苦笑する。
「があああああッ!!」
 戦いの最中、バクフーンの鋭利な爪の一撃がヘルガーを襲った。
 精度や狙いなど関係のない、力任せの一撃。しかしヘルガーは間一髪の動きでそれを避け、攻撃はヘルガーの背にあった木の幹に突き刺さった。
 凄まじい音が上がり、幹が折れた。容積の大半を削り取られ、自重に耐えられなくなった大樹は、周囲の樹木をなぎ倒しながらその身体を大地に横たえようと傾いていく。
 その先に、テツヤの身体があった。
「――ッ!」
 息を呑む。次の瞬間、肩口に何かがぶつかって、彼の身体は二、三メートルの距離を転がった。ぐるりと回転した視界に混乱が増すが、何とか木の下敷きは免れたようだ。
 吹き飛ばされたのではなく転がされた事で、身体へのダメージもそれほど大きくはなかった。内臓を狙って避ける的確な判断はさすがだと褒めるべきか。彼にぶつかってきた『それ』は、彼の顔をぺろぺろと舐めると、誇らしげにひとつ吼えた。
「わうっ!」
 アルト。コウヤとの旅の中で、咄嗟の判断力は充分に培ってきているらしい。
「爺ちゃん!」
 遅れて、聞き覚えのある声が耳に届いた。燻る炎を避けつつ、林の向こうから低い姿勢で駆け寄ってきた影は、すでに寝返りを打つ力も無くなりつつあるテツヤの身体を抱き起こし、その口元にハンカチを押し当てた。煙の吸引をわずかでも少なくするための措置。
「コウヤ……?」
 自分でも驚いたほど、舌が回らなくなっていた。視界がぼやけている。
「喋らなくていいから。アルト、頼む」
「わうぅッ!」
 コウヤの指示にアルトは勇ましい返事をし、その身を翻すと、傍で唸りを上げて燃え上がる火の手の中へとあっという間に飛び込んでいった。
「何を……?」
 テツヤは驚きに目を見張った。今しがたアルトを飲み込んだ炎塊が、みるみるうちに勢いを減らして小さくなっていくのだ。最後には炎は完全に消え、そこはアルトだけが残される。
 貰い火。
 周りの炎エネルギーを体内に吸収して、自分の攻撃エネルギーに変換するガーディの特性だ。
「とにかく注意を逸らすんだ。そのまま突っ込め!」
「がうぅ!」
 アルトは体中に溜め込んだエネルギーの赴くままに、今も文字通り熱を帯びた戦いを繰り広げるバクフーンとヘルガーの間へと飛び込んでいく。
 突然の乱入者に両者が一瞬怯んだ隙を突いて、まずはバクフーンの鳩尾に強烈な『突進』を見舞った。もんどりうって倒れ込んだバクフーンが起き上がる前にその眼前に跳躍し、首元に容赦無く『圧し掛かり』を打ち込む。
テツヤは言葉も出ない様子だった。普段ののんびりしたアルトの姿からは想像も出来ない立ち回りが、すぐには信じられない。
「大したもんだ」
「これでも結構鍛えてるんだよ、あいつも」
 ジムの特性と言うか、グレンジムで修行に明け暮れる日々の中で、コウヤはこうした火災に際しての動き方を一通り教えられていた。グレン山の噴火の際には避難が優先されて披露する事も適わなかったが、増してやこんな形で実践する事になるとも思わなかったが。
 コウヤはテツヤの脇に自分の肩をくぐらせると、背中に担ぎ上げた。
 思った以上に軽いその身体に、軽く面食らう。
「情けない……様子を伺うだけのつもりだったんだが」
「今はいい。今は俺に任せてくれ」
「あぁ」
「だから、今は早くここを抜け出して、一緒に帰るんだ」
「あぁ」
 相槌が曖昧になってきている。こちらの声は聞こえているようだが、おそらく炎に巻かれた全身が熱を持って思考を阻めているのだろう。一刻も早い処置が必要だ。
 その時、藪の向こうからアルトが猛スピードで吹き飛ばされてきた。目の前の地面に叩きつけられて、小さくうめき声が上がる。
「アルト!?」
「うぅぅ……ぎゃんぎゃんぎゃん!」
 平気だ、という様子で勇ましく吼えるアルトは、体中傷だらけだった。
 戦う意思の無い炎ポケモンが放つ火は、物を燃やさない。つまり、炎に限った事ではないのだが、ポケモンが発生させるエネルギーに破壊能力を付加させているのは、ポケモン個々が持つ感情だ。例えばギャロップなど、背に炎を纏いながら人を乗せるポケモンが乗り手によってその炎の温度を変える、といった逸話があるように。
 今回の場合、ヘルガーとバクフーンはお互いを倒すために炎エネルギーを使役し、破壊能力を得たエネルギーが周囲の木々を炎上させている。逆にアルトはこれ以上火の手を増やせないため、必然的に炎エネルギーを解放する事が出来ないでいるのだ。
 となると、ガーディの持ち得る攻撃方法は直接打撃に限られてくるのだが、貰い火によって取得したエネルギーもこれでは使用効率が悪く、何よりも顔を突き合わせての近接戦闘となると、相手との体格差が大きなハンデとなってくる。
「るがああぁッッ!」
 アルトを追って林の中から姿を現したヘルガーが、反り返った頭部の角でアルト串刺しにかかる。寸での所で回避するものの、反撃する余裕も無く身体を転がして避けるのが精一杯だ。ちょっかいをかけられて、ヘルガーはアルトを完全に敵と認識している様子だった。
「ぎゃん! ぎゃんぎゃんぎゃん!」
 威嚇の咆哮が、むしろその劣勢を現していた。
「がぉおおおッ……!」
 と、背後から今度はバクフーンが唸りを上げて踊りかかってきた。ヘルガーもアルトもお構いなしに、滅茶苦茶に爪を振り回す。
「くそ……」
 背に負ったテツヤの身体から徐々に力が抜けているのが分かった。もはや猶予はない、のだが、アルトを置いて離脱するわけにも行かず、いつ自分にも攻撃の目が向くかも知れない危険な状況下で、コウヤは押すも引くも出来なくなっていた。
 一瞬、バクフーンの身体が膨れ上がったように見えた。身体全身から炎エネルギーを解放する『噴火』攻撃。一度高く舞い上がった炎が、広範囲に雨のように降り注ぐ。
 あちこちで草木に引火し、空間の熱量がぐんぐんと増していく。これ以上ここに居座るのは避けたかった。アルトをテツヤと一緒に担いで、このまま逃げ切る事は出来るだろうか?
 刹那。
 熱を帯びた疾風が、コウヤの頭上で怒涛の如く暴れ回った。バクフーンの解放した炎エネルギーが相殺され、反射的に身を構えたコウヤの目の前に巨大な影が落ちてきた。
 眼光が唸った。
 射竦められたように、ヘルガーとバクフーンが凍りつく。
「ぐおおおおおおおおッッ!」
 覇気を込めた咆哮が空間そのものをぐらぐらと揺さぶった。
「な……?」
 一瞬、目が合った。その気迫に満ちた眼差しに、コウヤは覚えがあった。
 巨大な獣。その瞳の奥に光っているのは真っ赤な炎だった。
 昼間の一件が思い起こされる。
 まさか、と声を漏れた。
 燃え盛る烈火の如き攻撃が始まった。
 獣が前足で力強く大地を踏みつけると、地中から大人が抱えるほどの岩塊が飛び出てきた。そこに後ろ足で強烈な回し蹴りを叩き込まれ、凄まじい勢いで飛来した『ストーンエッジ』に、バクフーンは反応する事が出来なかった。
「ごぁッ」
 鈍い音を残し、岩塊をその身に受けて、バクフーンが崩れ落ちる。
 完全に意識を失っているバクフーンを蹴り飛ばし、獣は次の標的をヘルガーに定めた。
「……っ」
 ヘルガーが身を伏せる。降伏の意思を示した訳ではない。この姿勢は次の攻撃を放つ為の布石だと、コウヤは気付いた。まさにその時、ヘルガーは眼前に黒いエネルギー塊が発生し、渦を巻いて獣へと放たれる。
「……。」
 しかし、効かない。獣がその瞳をギラリと光らせた途端、ヘルガーの攻撃は両者の間でその軌道を止め、一瞬ふらりと揺れると握り潰されるように雲散霧消する。
 サイコキネシスにも近い念導が働いたようだ。
「『神通力』……?」
 ヘルガーの戦意がみるみる内に失われていくのが分かった。バクフーンを一瞬で戦闘不能にした力量もあるが、迫力という言葉で言い表す事すら不適切に思えるその眼光で睨み付けられると、それが勝ち目の無い闘いである事を本能的に感じる。
 ずん、と獣が前足を踏み出すと、ヘルガーは脇目も振らず一目散に逃げ出した。獣は決して追う事はせず、林の奥に消えていくその後ろ姿を黙って見送るだけだった。
「凄い……」
 コウヤが唖然として呟いた。
 思えばそれは、あっという間の出来事だった。勝負が付くまでにものの一分も経っていない。
「……。わうっ」
 こちらも信じられない、という様子で、アルト。
 二体のポケモン相手に一方的な戦いを演じたその獣は、彼が現れるまで雄々しく戦っていた小さな戦士に一瞥をくれた。敵意のそれではない。慈悲深さすら浮かぶ、落ち着いた輝き。獣は今だ周囲の林を燃やし続ける炎の渦をぐるりと睨み回し、わずかに瞑目した。
 そして。
「おおおおおぉぉぉぉォォッ!」
 信じられない事が起こった。まず獣の身体を中心として周囲の炎が次第に渦を形作る。炎がその姿を束ねさせると、獣の気迫の咆哮に呼応するかのようにして、その身体へと吸い込まれていくのだ。
「貰い火……なのか?」
 アルトが目を白黒させ、驚きの表情でその光景を見ていた。アルトの身体で吸収出来る量など遥かに超える炎エネルギーの許容量。その戦闘能力を見ても、この獣がただのポケモンではない事だけは間違いない。
 轟――!
 唸りを上げた炎が完全に獣の体内へと封じ込められると、辺りは一瞬前の明るさが信じられないほどの真っ暗闇と変わった。炎の光に慣れていた目では、周囲の状況がまったく感知できない。
 しかし次の瞬間、獣は小さく濃縮したエネルギー塊を、空へ向かって物凄い勢いで打ち上げた。弾丸のように飛び上がったエネルギー塊は、あっという間に天高く舞い上がり、
  ドォン
 上空でさながら花火の如く、眩しい閃光を撒き散らして――そしてゆっくりと消えた。
「お、おぉ……」
 テツヤが上ずった声を漏らし、ぼんやりと上空を見つめていた。その頬に一筋の涙が光る。アルトが興奮した様子で吼えまくり、尻尾を扇風機の如く振り回していた。
 コウヤは獣と視線を交わしていた。
 一瞬だけ、閃光が辺りを照らしたその瞬間だけ見えた獣の瞳が、コウヤをじっと見つめていたように見えた。昼間、トラックの中で感じたあの視線と同じだった。あの時コウヤが見たのはこの獣のだったのだろうか。そして、何故その獣がここにいるのだろうか。
 心が不思議な気持ちで満ち満ちていた。忘れていたもの、忘れようとしたもの、忘れられなかったもの。様々な想いがぐいぐいと力を増して迫ってきた。
「ありがとう」
 結局、言葉になったのはそれだけだった。
 だが、コウヤは笑っていた。笑えていた。
 こんなにも簡単な事なのに。こんなにも単純な事なのに。いつから忘れていたのだろうか。心の奥底では求めていた感覚。何かに怯え、耳を閉ざしていた。それは、嘘だったのに。
 ――笑っていろ。
 獣の瞳が、わずかに細められた。
 世界が暗闇に落ちて、もうそこに、獣の姿は無かった。


  ◆  ◆  ◆


 窓の外では、しとしとと雨が降っていた。
「よく降るなぁ……」
 窓ガラスを濡らす雫の流れを眺め、ひとりごつ。
 秋が訪れを告げるかのように、夏の残り香を流してしまうかのように、ミツキ曰く、久方ぶりに降ったと言うこの雨は、もう何日も降り続いたままだった。


 あの山火事から、四日後。
 コウヤはこの日、テツヤが収容された病院を訪れた。テツヤは悪化した腰痛の他にも炎に巻かれた影響で全身に軽い火傷を負っており一時的な面会謝絶扱いだったものの、意識はハッキリしているようで、時間制限付きで面会が許可されるまでさほど日時は要さなかった。 
 今日がその初日。用事で遅れるコウヤに先駆けて、ミツキが既に病院入りしている。
「あ、コウヤ」
 病室を覗き込むと、折りたたみ椅子に腰掛けたミツキが、片手を挙げて手招きした。
「お爺ちゃん、コウヤが来たよ」
 ベッドの上のテツヤは閉じていた瞳を開けてちらとコウヤを見やり、また静かに閉じる。
 表情に変化はなく、包帯でぐるぐる巻きにされたその姿は痛々しくもあったが、予想していたよりも幾分か落ち着いた様子で、その後の経過は良さそうだった。
「悪い、遅くなった」
 テツヤは両手に下げた荷物を傍らに置く。 
 置いて、しかしその後が続かない。声掛けて良いものか、どう接したらいいのか、まったく分からなくなっていた。
 所在無さげなその視線を察して、ミツキが呆れた様子で助け舟を出す。
「面会制限だってあるし、今日の検査も残ってんのよ? 遠慮してる場合じゃないでしょ」
「あー、うん……」
 曖昧に濁す。
「具合、どうなんだ?」
 本人が目の前にいるにもかかわらず、ミツキに尋ねた。
「今朝からお手伝い込みでご飯は食べれてるみたい。火傷の方もそこまで酷くなかったみたいで、むしろ腰の方が面倒かなぁ。まぁしばらく起き上がるのは無理だと思う……って、なんであたしに聞くの」
「う……ごめん」
「らしくないなぁ」
 しきりに医療ベッドの上のテツヤの様子を伺っている様子は、まるで職員室に呼び出された生徒のようでもあった。豪胆にも火事の只中に単身突入し、手負いの老人を救出した奇跡の立役者と同一人物とは、とても思えない。
 意を決して、言葉を呼気に乗せた。
「俺、爺ちゃんに酷い事言った」
 ミツキが、おっ、と身を乗り出す。
「過去に縋ってるとかさ、でも、あんな風に昔の事思い出してばかりなんて勿体無い――そう、勿体無いと思う。まだまだ現役だって言ったよな。心でそう思えてるなら上等だ。俺も教えてもらう事がまだまだあるはずだし、爺ちゃんは必要だ」
 そこまで一息に告げて、コウヤは一度深呼吸した。次の言葉が中々出てこない。
「だから、老い先短いなんて思うなよ」
 静かな沈黙が病室を包み込んだ。
「……。畑の様子は?」
「え?」
 意外な言葉だった。
「ツボツボたちは元気にしているか? 雨が続くと小屋が雨漏りする事があるから、上からシートをかけてやる必要がある。普段は通気性が悪くなるから取り払っているが、ちゃんと見つけられたのか?」
「え? え、っと――」
 突然の事に、一瞬口が回らなかった。
「順番に。畑のほうは雨のお陰で水の心配もないし、何とかなってる。ツボツボたちも元気だ。シートは……近所の畑の人たちが色々教えてくれて、昨日から被せた」
 指折り数えながら、思い出すように語る。
 テツヤが入院した事で、当然ながらコウヤは一人で畑の世話をしなければいけなくなった。祖父の教えを請いながら徐々に、と思っていた計画が大狂いだったが、周りの畑で同様に耕作している人たちにとにかく聞いて回り、何とかこなしていた。近隣の畑同士では普段から見ているせいか互いの作業も何となく頭に入ってしまうようで、テツヤの事情を知っている事もあり、そこは何かと気を回してもらえている。
 コウヤは持ってきた荷物の袋を開けると、中から小ぶりの瓶を取り出した。
「で、これ……。ツボツボたちのジュースが出来たんで持ってきた。入院中に飲んでいいのか分からないけど、気分が良くなればと思って」
「そうか……」
 どこかほっとした様子で、テツヤ。
「お爺ちゃん、面会が許されてない間に畑がすっごく気になってたみたいでね。お医者さんが様子を見に来る度に畑の様子は知らないか、って聞いてたそうよ」
「るせぇ。気にして悪いか」
 ぶっきらぼうな言葉の端に、恥ずかしげな声色が混じる。
「ともかく、元気そうで良かったわよ」
 うんうん、と頷いていたミツキが、ふとコウヤを見やった。
「でもさ、」
 顎に指先を当て、
「お医者さんが言ってた。結構長い事火の中にいたはずなのに、火傷がホントに軽度で済んでるって。火事の方もいつの間にか消えちゃったみたいだし、そんなに凄い火じゃなかったの?」
「……。」
 そんなはずはない。確かにテツヤは火から出来るだけ離れていたようだが、あの時自分たちを助けたあの獣の存在がいなければ、あのまま脱出できていたとしても火の回りはすぐには止まらなかっただろう。
 一瞬で周囲の炎を消し去ったあの獣が、何かしたのだろうか。
「あれは、エンテイだ」
 静かにテツヤが口を開いて、
「エンテイがワシの中でじりじり焼けていた炎を取っ払ってくれたんだ。ワシには分かる」
 どこか確信めいた口調だった。
「炎と一緒に、色んなものを取っ払ってくれた気がするよ、あいつは。何でか知らないけれど、今はすごく気分がいい」
 そう言って、テツヤは天井を仰ぎ見た。どこか満ち足りた表情。
「エンテイ? え? 何の話?」
 ミツキが首を捻る。あの獣――テツヤの言うエンテイの事は、今の今まで誰にも、ミツキにさえも伝えていなかった。だから、周囲の認識としてはあの火事は偶然にも小火で済む程度の規模だった事になっている。
 と、コウヤの腰のモンスターボールがガタガタと揺れ、勝手に開いた。
 中から飛び出してきたのは、アルトだ。
「わっ、馬鹿。病室では大人しくしてろって言ってたのに」
「ぎゃんぎゃんぎゃん!」
 慌ててその首根っこを掴むコウヤをよそに、アルトは興奮気味に吠えまくる。まるでテツヤの言葉を肯定するかのようだった。
「アルトもそう思うか」
 テツヤの口元がぎこちなく吊り上がった。
「いやいやいや、待って待って。なによエンテイって。そんなの聞いてないし」
「そりゃ誰にも言ってなかったから――って、姉ちゃん知ってるのか?」
「当たり前でしょ!? あたしが大学でなに専攻してるか分かってる?」
「いや、知らないけど」
「なにそれひどい」
 ミツキは一瞬唖然と言葉を失った。
「ポケモン史学よ。……あー、言っても分かんないか。まぁ要するにポケモンの歴史を調べましょうって学問。あたしはその中でも、地方に残ってるおとぎ話や伝承から、それにどんな形でポケモンが関わってたか研究する分野を学んでるの」
「は、はぁ」
「あのオーキド・ユキナリ博士とも喋った事もあるんだから」
「マジか。凄いな」
 知っている単語が出たので反応しました、という様子のコウヤ。ミツキはどれだけ興味ないんだ、と呆れて、同時に諦めて次の話題に移る。
「で、よ。エンテイっていったらそういう昔話にも時々名前が出てくる伝説のポケモンなのよ。……本当にエンテイだったの? て言うかお爺ちゃんは見た事あるの?」
「いや、ない。名前しか知らん」
 即答が返される。
「だが、風のように駆け抜けるあの雄々しい姿、周囲の炎を吸い取ったあの力。これがエンテイでなくては、他に思い当たらん」
「炎を吸い取ったって……?」
 再び首を捻るミツキに、コウヤは事の次第を伝えた。火事の規模の事、エンテイの事。ミツキは最初はどこか疑いながら聞いていたが、話が進むに連れてその表情を微妙に変化させ、
「案外と……間違ってないかもしれないね」
 最後にはどこか納得した様子で頷いて見せた。
「間違ってないのか?」
「ま、確認されてる数も少ないポケモンだから。絶対そうとは言い切れないけど」
 じとりとした視線を向ける。
「しかしホントだとしたらズルい。この分野に入って研究続けてきたあたしだけど、そんなポケモン実物で見た事なんてないもの。恨むぞコラ」
 真顔で言う。反射的に仰け反ったコウヤだが、ミツキはつと表情を変化させ、
「ねぇ。知ってる? エンテイに関する言い伝え――」
 言葉を切る。これから大切な事を喋るぞ、と視線で訴え、
「エンテイは、火山が噴火する度に生まれてくるって言われてるの」
「火山の噴火……」
「そ。……もしかしたらよ? これは研究者にあるまじき勝手すぎる推測だけど、」
 コウヤの目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「そのエンテイは、あんたに詫びを入れに来たのかも知れないなぁ、って」
「詫び?」
「もしかしたら、そのエンテイはグレン島の噴火から生まれてきたのかも――なんて、ちょっちロマンチックが過ぎる解釈だけどね。偶然だと思うよりよっぽど素敵だと思うのよねぇ」
 うっとりとした様子で、ミツキ。一瞬溜め息で済まそうとして、ふと気付いた。こんな時にどんな顔をすればよかったのか。何も困る必要はなかった。
「――ははっ」
 コウヤの笑顔に、ミツキも満足げに微笑んだ。


 溜め込んでいたもの。背負ったつもりになっていたもの。我慢したいたもの。
 圧倒的な自然の猛威の前に、人は時に無力だ。若者も年寄りも関係なく、人は死ぬ時には死ぬ。時が来れば、夢も命も、築き上げてきた物も等しく失われる。
 でもそれは自分の人生だ。過去は決してやり直せないのに。分かっていたが、一度に失った物が大きすぎて、すぐに納得をさせてくれなかった。純粋に楽しかった日々の記憶が、いつしか彼から笑顔を奪う枷となっていた。
 過去を捨て去って生きる事は有り得ないと、今でも思う。今すぐあの時間が戻ってきたらどれ程嬉しいか分からない。
 しかし――。
 過去への肯定は、裏を返せば現在の自分への疑念だ。


 笑っていたかったはずなのだ。
 変に大人ぶらず、気持ちの赴くがままに――笑っていたい。
 それが生きるという事では、おかしいか。


 未来がある。


 それは誰にでもある、しかしただの事実だ。言葉そのものに、何かを変える力はない。
 そこから何かを変えるのは、――変わるのは自分の仕事だ。
 決別の時だった。



「俺、旅に出ようと思う」
「旅に……って、今すぐに?」
 コウヤは首を横に振った。
「いつか。一年後か、二年後か、もっと先かも知れないけど……いつか。やっぱり俺は、こいつと一緒に旅してるのが性に合ってる気がするから」 
 アルトの頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
 旅に出たあの日と同じ、そしてこれからもずっと変わらないであろう、相棒の暖かな感触を確かめた。
「いつでもいいんだ。遅くても早くても、それは全部俺の人生だから」
 ミツキが小さく頷いた。
 いつかエンテイにも会いに行こうと思う。
 一期一会で済ますつもりはない。地の果てまで追いかけて、土下座でもさせてやろう。
 伝説のポケモンに土下座させる。面白い目標じゃあないか、とコウヤは冗談交じりに思った。
「なんかよ、早くくたばれって言われてるみたいに聞こえるな」
 テツヤのかすれた笑い声が病室に響く。腰に響いたのか眉根に皺を寄せて、しかし笑う事はやめなかった。
「どうかな。退院したら教えてもらう事が沢山ある」
「苦労しそうだ」
「楽には死なせないさ」
 ぷっ、とミツキが吹き出して、それにつられて二人と一匹も笑った。
 祖父の体の事、畑の事。
 そして、臆病だった自分との決別。
 乗り越えていかなければいけない事はたくさんあるだろう。
 でもその先に見えている未来があれば、そう難しい事ではない気がした。
「だからさ――」
 すんなりと言葉が出た。
「聞いて欲しい話があるんだ。俺の、グレン島での思い出話」
 ミツキが手を叩いた。ベッドの上のテツヤも自由でない身体を起こして耳を傾ける。
 声が呼気に乗った。アルトも瞳を輝かせていた。
 これは自分のための旅。その始まりだ。

 さぁ、一歩を踏み出そう。


>> 1 2


[  Home  ]

2style.net